河東碧梧桐(読み)カワヒガシヘキゴトウ

デジタル大辞泉 「河東碧梧桐」の意味・読み・例文・類語

かわひがし‐へきごとう〔かはひがし‐〕【河東碧梧桐】

[1873~1937]俳人・書家。愛媛の生まれ。名は秉五郎へいごろう正岡子規に師事。新傾向俳句を唱えた。荻原井泉水おぎわらせいせんすいらと「層雲」を創刊。のち、自由律に進んだ。著「三千里」「碧梧桐句集」など。

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精選版 日本国語大辞典 「河東碧梧桐」の意味・読み・例文・類語

かわひがし‐へきごとう【河東碧梧桐】

  1. 俳人。愛媛県出身。本名秉五郎(へいごろう)。正岡子規に師事。子規の俳句革新運動を助け、子規没後は「日本」「日本及び日本人」の俳壇担当。新傾向俳句運動の中心となり、荻原井泉水らと「層雲」を創刊。著「碧梧桐句集」「三千里」。明治六~昭和一二年(一八七三‐一九三七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「河東碧梧桐」の意味・わかりやすい解説

河東碧梧桐
かわひがしへきごとう
(1873―1937)

俳人。明治6年2月26日、愛媛県松山に生まれる。本名秉五郎(へいごろう)。同郷の高浜虚子(きょし)と伊予尋常中学、旧制第三高等学校(京都)、旧制第二高等学校(仙台)をともにし、1894年(明治27)ともに二高を中退して上京。正岡子規(しき)の俳句革新運動を助け、翌1895年、子規の日清(にっしん)戦争従軍中は新聞『日本』の「日本俳句」欄の主任となり、また『ホトトギス』に選句や句文を発表した。1902年(明治35)子規が逝去し、「日本俳句」の選を継いだ。その句風は子規により印象明瞭(めいりょう)と評され、虚子の主観的な配合趣味の句風と対立した。1906年から1911年にかけて2回にわたり三千里全国遍歴を行い、「新傾向」の句風を鼓吹したが、その背景には自然主義思潮があり、新傾向派が俳壇を占めた。虚子は当時小説に没頭していたが大正初頭俳壇に復帰し、「新傾向」は俳句の伝統を破るものと非難した。「新傾向」とは大須賀乙字(おおすがおつじ)が碧梧桐派の句風を推称した語であったが、碧梧桐の急進乙字論難を受けるに至り、碧梧桐は荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)創刊の『層雲』に参加した。しかし、大正初頭に井泉水が新傾向を批判して定型と季題を無用とする自由律俳句を主張すると、季題について異論のある碧梧桐は中塚一碧楼(いっぺきろう)と『海紅(かいこう)』を創刊、自由律俳句に進んだが、一碧楼とも別れ、1923年(大正12)個人誌『碧(へき)』を、1925年には『三昧(さんまい)』(『碧』改題)を風間直得(かざまなおえ)と創刊、自作を短詩と称した。直得がルビ句という新体を始めると碧梧桐もそれを試みたが、しだいに行き詰まり、1933年(昭和8)俳壇を引退した。

 編著に『春夏秋冬』(子規・虚子との共選。1901~1903)、『続春夏秋冬』(1906~1907)、『日本俳句鈔(しょう)第一集』(1909)、『同第二集』(1913)。個人句集に『新傾向句集』(1915)、『碧梧桐句集』(乙字編。1916)、『八年間』(1923)など。紀行に『三千里』(1910)、『続三千里』上巻(1914)、そのほか『新傾向句の研究』(1915)、『子規の回想』(1944)。昭和12年2月1日没。

[伊澤元美]

 春寒し水田の上の根なし雲
 寺大破炭割る音の聞えけり
 春かけて旅すれば白ら紙の残りなくもう

『喜谷六花・滝井孝作編『碧梧桐句集』(角川文庫)』『阿部喜三男著『新訂俳句シリーズ 人と作品6 河東碧梧桐』(1980・桜楓社)』

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百科事典マイペディア 「河東碧梧桐」の意味・わかりやすい解説

河東碧梧桐【かわひがしへきごとう】

俳人。本名秉五郎(へいごろう)。松山生れ。二高中退。高浜虚子とともに正岡子規に師事,俳句革新運動に参加した。子規没後新傾向俳句を提唱,自由律を主張し,のち自作を短詩と称した。俳誌《海紅》《碧》《三昧》などを創刊し,《碧梧桐句集》のほか,紀行文集《三千里》などがある。
→関連項目臼田亜浪大須賀乙字荻原井泉水写生文政教社滝井孝作中塚一碧楼俳句ホトトギス松根東洋城

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改訂新版 世界大百科事典 「河東碧梧桐」の意味・わかりやすい解説

河東碧梧桐 (かわひがしへきごとう)
生没年:1873-1937(明治6-昭和12)

明治・大正期の俳人,随筆家。松山市生れ。本名秉五郎(へいごろう)。別号青桐,海紅堂主人。松山中学を経て三高に入学。二高に転じて中退。上京後,正岡子規の主張する〈写生〉を推し進め,1896年には印象明瞭の作品として結晶させた。子規没後は,新聞《日本》の日本俳句欄の選者,《日本及日本人》の俳句欄選者をつとめた。1908年,大須賀乙字(おつじ)の示唆によって季題の効用に着眼,俳句の内容の複雑化を試み,新傾向俳句運動を展開した。この前後には〈三千里の旅〉と名づけた全国旅行を試み,各地での見聞を克明に記録。描写と独特の文脈の飛躍,考証などによって個性的な随筆を残した。また,旅中に写生と季題の伝承的規範との矛盾に気づき,俳句を天然現象や生活現象に近寄せる方法として〈無中心論〉を提唱して,俳句を作る際の人為性を排した。大正中期までに自由律表現と無季俳句を見せ,昭和初期には,ルビ俳句に移った。しかし,漢語に特殊なルビをつけることで意味の広がりをもたせ,短詩表現の幅を広げようとするこの試みは,俳壇の支持を失って,33年に俳壇から隠退した。37年に腸チフスで死去した。〈赤い椿白い椿と落ちにけり〉(《碧梧桐句集》)。
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20世紀日本人名事典 「河東碧梧桐」の解説

河東 碧梧桐
カワヒガシ ヘキゴトウ

明治〜昭和期の俳人



生年
明治6年2月26日(1873年)

没年
昭和12(1937)年2月1日

出生地
愛媛県松山市

本名
河東 秉五郎(カワヒガシ ヘイゴロウ)

学歴〔年〕
二高中退

経歴
中学時代から正岡子規に師事。二高中退後上京し、子規の俳句革新運動に加わり、「日本」「新声」などの俳句欄選者となる。明治30年に創刊された「ホトトギス」に俳句、俳論、写生文を発表。36年頃から新傾向俳句へ進み始め、高浜虚子と対立、袂を分つ。39年全国旅行を開始、新傾向俳句運動を興す。大正4年「海紅」を創刊、自由律の方向をたどる。8年大正日日新聞社会部長となり、9年から11年にかけて西欧各国を旅行。帰国後の12年「碧」、14年「三昧」を創刊した。昭和8年俳壇を引退。俳句は定型時代、新傾向時代、自由律時代にわけられ、句集に「新俳句」「春夏秋冬」「続春夏秋冬」「碧梧桐句集」がある。「俳句評釈」「新傾向句の研究」などの評論、「三千里」などの紀行文集、「蕪村」などの蕪村研究、「子規の回想」などの子規研究や随筆集など、著書は数多い。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「河東碧梧桐」の意味・わかりやすい解説

河東碧梧桐
かわひがしへきごとう

[生]1873.2.26. 松山
[没]1937.2.1. 東京
俳人。本名,秉五郎 (へいごろう) 。幼時から漢学者の父の知人正岡子規を知り,俳句の手ほどきを受けた。第三高等学校を経て二高に入ったが,子規が俳句革新を始めると,高浜虚子とともに学校を中退 (1894) してこれに参加し,双璧と称された。子規没後は虚子の主宰する『ホトトギス』の趣向派を圧倒する「日本俳句派」を形成,写実を重んじる新傾向俳句を展開した。その隆盛を支えたのは「三千里」といわれた全国旅行だったが,1915年頃大須賀乙字,荻原井泉水,中塚一碧楼らがそれぞれ離反して分裂的解消にいたった。 22年に個人誌『碧』,25年にその発展誌『三昧』を創刊したが,32年引退。紀行文集『三千里』 (1906) のほか『碧梧桐句集』 (16,40,47,54) がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「河東碧梧桐」の解説

河東碧梧桐 かわひがし-へきごとう

1873-1937 明治-昭和時代前期の俳人。
明治6年2月26日生まれ。高浜虚子とともに正岡子規にまなび,新聞「日本」の俳句欄の選者をひきつぐ。のち新傾向俳句運動をおこし,中塚一碧楼(いっぺきろう)らと「海紅」を創刊,季題と定型にとらわれない自由律俳句にすすむ。大正12年「碧(へき)」,14年「三昧(さんまい)」を創刊。昭和12年2月1日死去。65歳。愛媛県出身。本名は秉五郎(へいごろう)。作品に「碧梧桐句集」,紀行文に「三千里」など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「河東碧梧桐」の解説

河東碧梧桐
かわひがしへきごとう

1873.2.26~1937.2.1

明治・大正期の俳人。愛媛県出身。本名秉五郎(へいごろう)。松山中学時代に正岡子規から俳句の手ほどきをうけた。二高中退後,上京し,子規の俳句革新運動に参加し,「ホトトギス」の中心的存在となる。1902年(明治35)の子規没後は新聞「日本」の俳句選者。06年から国内各地を旅し,俳句の近代化のため新傾向俳句を広めた。のち自由律をも作句。与謝蕪村研究の著述も多い。紀行文集「三千里」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「河東碧梧桐」の解説

河東碧梧桐
かわひがしへきごとう

1873〜1937
明治〜昭和期の俳人
本名は秉五郎 (へいごろう) 。愛媛県の生まれ。高浜虚子とともに正岡子規の高弟。子規没後,虚子が師の写生主義を継承したのに対して,主観主義の新傾向運動を提唱,のち自由律俳句への道を開いた。おもな句集に『新傾向句集』『八年間』など。

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367日誕生日大事典 「河東碧梧桐」の解説

河東 碧梧桐 (かわひがし へきごとう)

生年月日:1873年2月26日
明治時代-昭和時代の俳人
1937年没

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世界大百科事典(旧版)内の河東碧梧桐の言及

【自由律】より

…【木俣 修】
[自由律俳句]
 新傾向俳句が俳句の旧習を脱しようとしてあたらしい試みをしながらも,なお定型と季題を捨てきれなかったのを不満として,季題の拘束から離れ,自由な表現を試みたのが中塚一碧楼らで,俳誌《第一作》(1912)によってはじめてこれを試みた。これが自由律俳句運動のおこりで,1914年(大正3)には荻原井泉水が俳誌《層雲》でいっそう大胆な自由表現と季題無用論を唱えて加わり,さらに17年には河東碧梧桐も口語表現のさけがたいことを論じて運動に投じた。これを俳誌の面からいえば,前記《第一作》の後身《海紅(かいこう)》と《層雲》を主流として,碧梧桐の《碧》《三昧》,栗林一石路らの《俳句生活》を加えたものが自由律俳句の流れであった。…

【新傾向俳句】より

…1908‐14年(明治41‐大正3)ころ,河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)選の〈日本俳句〉(《日本及日本人》の俳句欄)を中心に全国をふうびした俳句近代化運動。(1)第1期 大須賀乙字は08年《アカネ》に論文《俳句界の新傾向》を掲げ,進むべき道は〈思はずもヒヨコ生まれぬ冬薔薇 碧梧桐〉のように季題が境地や情緒を象徴する暗示法にあると説いた。…

※「河東碧梧桐」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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