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河東碧梧桐 かわひがし へきごとう

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美術人名辞典の解説

河東碧梧桐

俳人。愛媛県生。名は秉五郎。正岡子規に師事し、高浜虚子と並んで子規門の双璧と称される。子規歿後は新傾向運動を展開し、ヒューマニズム色のある個性的な自由律を生み出した。昭和12年(1937)歿、65才。

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デジタル大辞泉の解説

かわひがし‐へきごとう〔かはひがし‐〕【河東碧梧桐】

[1873~1937]俳人・書家。愛媛の生まれ。名は秉五郎(へいごろう)。正岡子規に師事。新傾向俳句を唱えた。荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)らと「層雲」を創刊。のち、自由律に進んだ。著「三千里」「碧梧桐句集」など。

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百科事典マイペディアの解説

河東碧梧桐【かわひがしへきごとう】

俳人。本名秉五郎(へいごろう)。松山生れ。二高中退。高浜虚子とともに正岡子規に師事,俳句革新運動に参加した。子規没後新傾向俳句を提唱,自由律を主張し,のち自作を短詩と称した。
→関連項目臼田亜浪大須賀乙字荻原井泉水写生文政教社滝井孝作中塚一碧楼俳句ホトトギス松根東洋城

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

河東碧梧桐 かわひがし-へきごとう

1873-1937 明治-昭和時代前期の俳人。
明治6年2月26日生まれ。高浜虚子とともに正岡子規にまなび,新聞「日本」の俳句欄の選者をひきつぐ。のち新傾向俳句運動をおこし,中塚一碧楼(いっぺきろう)らと「海紅」を創刊,季題と定型にとらわれない自由律俳句にすすむ。大正12年「碧(へき)」,14年「三昧(さんまい)」を創刊。昭和12年2月1日死去。65歳。愛媛県出身。本名は秉五郎(へいごろう)。作品に「碧梧桐句集」,紀行文に「三千里」など。

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世界大百科事典 第2版の解説

かわひがしへきごとう【河東碧梧桐】

1873‐1937(明治6‐昭和12)
明治・大正期の俳人,随筆家。松山市生れ。本名秉五郎(へいごろう)。別号青桐,海紅堂主人。松山中学を経て三高に入学。二高に転じて中退。上京後,正岡子規の主張する〈写生〉を推し進め,1896年には印象明瞭の作品として結晶させた。子規没後は,新聞《日本》の日本俳句欄の選者,《日本及日本人》の俳句欄選者をつとめた。1908年,大須賀乙字(おつじ)の示唆によって季題の効用に着眼,俳句の内容の複雑化を試み,新傾向俳句運動を展開した。

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大辞林 第三版の解説

かわひがしへきごとう【河東碧梧桐】

1873~1937) 俳人。愛媛県生まれ。本名、秉五郎へいごろう。正岡子規門の高弟。高浜虚子と対立、定型・季語を離れた新傾向俳句を提唱。全国行脚して「三千里」「続三千里」をまとめた。のち自由律、ルビつき句など句風は変遷した。著「新傾向句集」「碧梧桐句集」「子規言行録」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

河東碧梧桐
かわひがしへきごとう

[生]1873.2.26. 松山
[没]1937.2.1. 東京
俳人。本名,秉五郎 (へいごろう) 。幼時から漢学者の父の知人正岡子規を知り,俳句の手ほどきを受けた。第三高等学校を経て二高に入ったが,子規が俳句革新を始めると,高浜虚子とともに学校を中退 (1894) してこれに参加し,双璧と称された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

河東碧梧桐
かわひがしへきごとう
(1873―1937)

俳人。明治6年2月26日、愛媛県松山に生まれる。本名秉五郎(へいごろう)。同郷の高浜虚子(きょし)と伊予尋常中学、旧制第三高等学校(京都)、旧制第二高等学校(仙台)をともにし、1894年(明治27)ともに二高を中退して上京。正岡子規(しき)の俳句革新運動を助け、翌1895年、子規の日清(にっしん)戦争従軍中は新聞『日本』の「日本俳句」欄の主任となり、また『ホトトギス』に選句や句文を発表した。1902年(明治35)子規が逝去し、「日本俳句」の選を継いだ。その句風は子規により印象明瞭(めいりょう)と評され、虚子の主観的な配合趣味の句風と対立した。1906年から1911年にかけて2回にわたり三千里全国遍歴を行い、「新傾向」の句風を鼓吹したが、その背景には自然主義思潮があり、新傾向派が俳壇を占めた。虚子は当時小説に没頭していたが大正初頭俳壇に復帰し、「新傾向」は俳句の伝統を破るものと非難した。「新傾向」とは大須賀乙字(おおすがおつじ)が碧梧桐派の句風を推称した語であったが、碧梧桐の急進は乙字の論難を受けるに至り、碧梧桐は荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)創刊の『層雲』に参加した。しかし、大正初頭に井泉水が新傾向を批判して定型と季題を無用とする自由律俳句を主張すると、季題について異論のある碧梧桐は中塚一碧楼(いっぺきろう)と『海紅(かいこう)』を創刊、自由律俳句に進んだが、一碧楼とも別れ、1923年(大正12)個人誌『碧(へき)』を、1925年には『三昧(さんまい)』(『碧』改題)を風間直得(かざまなおえ)と創刊、自作を短詩と称した。直得がルビ句という新体を始めると碧梧桐もそれを試みたが、しだいに行き詰まり、1933年(昭和8)俳壇を引退した。
 編著に『春夏秋冬』(子規・虚子との共選。1901~03)、『続春夏秋冬』(1906~07)、『日本俳句鈔(しょう)第一集』(1909)、『同第二集』(1913)。個人句集に『新傾向句集』(1915)、『碧梧桐句集』(乙字編。1916)、『八年間』(1923)など。紀行に『三千里』(1910)、『続三千里』上巻(1914)、そのほか『新傾向句の研究』(1915)、『子規の回想』(1944)。昭和12年2月1日没。[伊澤元美]
 春寒し水田の上の根なし雲
 寺大破炭割る音の聞えけり
 春かけて旅すれば白ら紙の残りなくもう
『喜谷六花・滝井孝作編『碧梧桐句集』(角川文庫) ▽阿部喜三男著『新訂俳句シリーズ 人と作品6 河東碧梧桐』(1980・桜楓社)』

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世界大百科事典内の河東碧梧桐の言及

【自由律】より

…【木俣 修】
[自由律俳句]
 新傾向俳句が俳句の旧習を脱しようとしてあたらしい試みをしながらも,なお定型と季題を捨てきれなかったのを不満として,季題の拘束から離れ,自由な表現を試みたのが中塚一碧楼らで,俳誌《第一作》(1912)によってはじめてこれを試みた。これが自由律俳句運動のおこりで,1914年(大正3)には荻原井泉水が俳誌《層雲》でいっそう大胆な自由表現と季題無用論を唱えて加わり,さらに17年には河東碧梧桐も口語表現のさけがたいことを論じて運動に投じた。これを俳誌の面からいえば,前記《第一作》の後身《海紅(かいこう)》と《層雲》を主流として,碧梧桐の《碧》《三昧》,栗林一石路らの《俳句生活》を加えたものが自由律俳句の流れであった。…

【新傾向俳句】より

…1908‐14年(明治41‐大正3)ころ,河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)選の〈日本俳句〉(《日本及日本人》の俳句欄)を中心に全国をふうびした俳句近代化運動。(1)第1期 大須賀乙字は08年《アカネ》に論文《俳句界の新傾向》を掲げ,進むべき道は〈思はずもヒヨコ生まれぬ冬薔薇 碧梧桐〉のように季題が境地や情緒を象徴する暗示法にあると説いた。…

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