朝日日本歴史人物事典 「藤原景清」の解説
藤原景清
平安末・鎌倉初期の武将。藤原(伊藤)忠清の子。俗に平景清,「悪七兵衛」ともいう。治承4(1180)年安徳天皇の滝口(滝口武者)となる。源平争乱では侍大将として活躍。富士川の戦直後,父より源氏追討のため信濃守に推挙される。京に留まった父と異なり平氏都落ちに同行,一の谷以下の合戦に奮戦。文治1(1185)年壇の浦の戦では戦場をのがれたが,その後については,源頼朝に降伏して建久6(1195)年3月の大仏供養の日には断食して自殺したとも(長門本『平家物語』),建久7年の京における平知盛の遺子知忠の反乱に加わった末に行方をくらましたとも(延慶本『平家物語』)いわれる。実像が不明確な反面,その武勇は後世に増幅され,多くの文芸作品の素材ともなった。
(元木泰雄)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報