平安末・鎌倉初期の武将。上総介藤原忠清の子。悪七兵衛景清と称された平家の侍大将。1180年(治承4)の源頼政との戦いをはじめ,源平争乱のなかで源義仲・行家との合戦,一ノ谷,備前児島の合戦など各地を転戦。壇ノ浦の戦で生きのび,95年(建久6)源頼朝に下り,翌年断食して死んだという。《平家物語》,謡曲,能などで悲劇的な英雄としてとりあげられる。
執筆者:田中 文英
景清について《平家物語》に語られる話としては,巻十一〈弓流〉の錣(しころ)引きがほとんど唯一のものである。屋島の戦のさい,義経の奇襲で海上に逃れた平家方から,3人の武士が陸に上がる。その一人の景清は,源氏方の美尾屋十郎が逃げるところを錣をつかんで兜の鉢付から引き切り,〈是こそ京わらんべのよぶなる上総悪七兵衛景清よ〉と名のりを上げる。〈壇之浦合戦〉では越中次郎兵衛盛次,上総五郎兵衛忠光とともに壇ノ浦を落ちのびるが,延慶本,長門本など,いわゆる読本の《平家物語》では,降人となった景清が常陸国で法師になり,東大寺大仏供養の日を期して干死(ひじに)したという後日談をのせる。しかし景清の後日談が成長するのは,謡曲,幸若舞,浄瑠璃などの後代の語り物においてである。謡曲《景清》では日向国の流人となり,〈日向勾当〉と名のる盲目の景清が鎌倉から訪ねてきた娘の人丸を前に錣引きのことを語っている。《大仏供養》では東大寺大仏供養の群集に紛れて頼朝の命をねらうが,見あらわされて隠形の術を使って遁走する。また幸若舞の《景清》は,中世の景清伝説の完成態といえるものである。景清は37度まで頼朝の命をねらうが,そのたびに畠山重忠に見あらわされて果たさず,舅の熱田大宮司のもとに潜伏する。頼朝が梶原景時に命じて景清を求めさせると,清水坂の遊女で景清の愛人のあこ王が訴人に出る。景清はあこ王との間に生まれた2人の子を殺害して遁走,大宮司が六波羅に捕らえられると名のり出る。いったん牢を破って清水寺に参詣するが,舅の難を恐れて帰獄し,六条河原で首を斬られることになる。しかし清水観音が身代りになって景清は助かる。それを知った頼朝は景清を許して所領を与えたため,景清は復讐の念を断つべくみずから両眼をえぐり,日向国宮崎荘に下る当日,清水に参詣すると両眼が元にもどったという話になっている。なお古浄瑠璃の《景清》は,幸若舞の台本をそのまま流用したものである。また近世の浄瑠璃,歌舞伎の世界では,〈判官物〉や〈曾我物〉と並んで〈景清物〉はとくに重要な位置を占めている。近松門左衛門作《出世景清》,文耕堂・長谷川千四合作《壇浦兜軍記》をはじめ,景清物の多くは幸若舞《景清》をもとに,翻案・改作したものだが,作者未詳の《鎌倉袖日記》のように景清の娘の人丸をヒロインとした謡曲《景清》の翻案もある。
景清と盲目・盲人との結びつきは,景清が流された(または所領を与えられた)日向の宮崎に,景清をまつる生目(いきめ)八幡社があり,近世を通じて日向地方の盲僧の拠点になっていたことからもわかる。出羽の羽黒山には,かつて景清を開祖とする盲僧派があったといわれ,また〈隣の寝太郎〉型の昔話の一つに,寝太郎の先祖じつは悪七兵衛景清とするのも,〈景清を元祖とする盲人の一群〉があって,彼らが昔話の伝播にあずかったためといわれる。中世に行われた《平家物語》の作者伝承に,〈悪七兵衛カゲキヨ〉を原作者の一人とする説があるのも(《臥雲日軒録》文明2年正月4日,座頭熏一の談),当然そのような〈盲人の一群〉との関連で考えられる。ほとんど全国的に分布する景清伝説にしても,景清を開祖または祖神とする琵琶法師の足跡と無関係ではないだろう。なぜ,とくに景清が盲人・琵琶法師と結びつくかといえば,壇ノ浦を落ちのびた景清が,平家滅亡の報道者の資格をもつとともに,おそらく景清のカゲが姿かたち,光明を意味すること,すなわちその名がそのまま盲人の切実な欲求を表現することに起因するからだろう。景清が日向や常陸に住んだとされるのも,それが日の立つ国,日に向かう国の光明をイメージさせるからで,そのことは当道(とうどう)座(平家語りの琵琶法師の芸能座)の祖神,常陸宮人康(さねやす)親王が日向に家領を持ったとする伝承(《当道要集》ほか)にも通じている。いずれにせよ,景清の名が盲人と結びついた時点で,すでに幸若舞以後の生目伝説も用意されたといえる。また景清が頼朝への執拗な反抗を企て,平家一門の怨恨を一身に負わされた形で造型されることも,盲人・琵琶法師の死霊の憑坐(よりまし)としての職能に関係するだろう。
→阿古屋
執筆者:兵藤 裕己
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平安末期の武将。藤原忠清(ただきよ)の子。1180年(治承4)の北陸道における木曽義仲(きそよしなか)との戦いに平家軍として参戦、続く84年(元暦1)の一ノ谷の戦いにも奮戦したが敗れた。翌年の屋島(やしま)の戦いで、武蔵(むさし)国住人美尾屋(みおのや)十郎の兜(かぶと)の錣(しころ)をとった景清は、「是(これ)こそ京童(わら)べのよぶなる上総悪七兵衛(かずさあくしちびょうえ)景清」と名のった(平家物語)。彼は叔父にあたる大日能忍(だいにちのうにん)を早合点から殺してしまい、悪七兵衛といわれていた。壇ノ浦における平氏滅亡後も生き延びた景清は、平氏再興を図る知忠(ともただ)(知盛(とももり)の子)の挙兵に加わった。その後95年(建久6)東大寺供養に上洛(じょうらく)した源頼朝(よりとも)に降(くだ)り、八田知家(はったともいえ)に預けられたが、やがて飲食を断って死んだという。謡曲『大仏供養』、浄瑠璃(じょうるり)『出世景清』(近松門左衛門作)などで有名である。
[田辺久子]
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…人形浄瑠璃。時代物。5段。通称《日向島》《盲景清》。若竹笛躬(ふえみ),黒蔵主(こくぞうす),中邑阿契(なかむらあけい)合作。1764年(明和1)10月大坂豊竹座初演。悪七兵衛景清の後日譚物で,日向に流された景清を娘が尋ねる三段目が歌舞伎に移され,とくに有名になった。景清の娘糸滝は,日向にいる盲目の父を都に連れ戻し仕官させたいと,わが身を手越の宿花菱屋に売ろうとする。孝心に感じた花菱屋の主人左次太夫に連れられ,日向まで糸滝は父を尋ねて来るが,盲目の乞食となった景清は,父は飢死したと偽り,帰そうとする。…
…平曲の曲名,能の小書(こがき)名。(1)平曲。平物(ひらもの)。拾イ物。屋島の戦のおりである。平家方の船団から楯を持たせた武者が波打ち際に上がり,源氏方を招いた。源氏の三保谷十郎(みおのやのじゆうろう)たち5騎が向かったところ,楯の陰から強弓で射かけられ,三保谷の馬が倒れた。小太刀を抜いた三保谷に,楯から出て来た武者は大薙刀でかかってきた。三保谷が逃げ出すと,その兜の錣(しころ)をつかんで引き戻し,ついに錣を引きちぎって悪七兵衛景清(あくしちびようえかげきよ)と大音で名のった(〈拾イ〉)。…
※「平景清」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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