平景清
たいらのかげきよ
(?―1196)
平安末期の武将。藤原忠清(ただきよ)の子。1180年(治承4)の北陸道における木曽義仲(きそよしなか)との戦いに平家軍として参戦、続く84年(元暦1)の一ノ谷の戦いにも奮戦したが敗れた。翌年の屋島(やしま)の戦いで、武蔵(むさし)国住人美尾屋(みおのや)十郎の兜(かぶと)の錣(しころ)をとった景清は、「是(これ)こそ京童(わら)べのよぶなる上総悪七兵衛(かずさあくしちびょうえ)景清」と名のった(平家物語)。彼は叔父にあたる大日能忍(だいにちのうにん)を早合点から殺してしまい、悪七兵衛といわれていた。壇ノ浦における平氏滅亡後も生き延びた景清は、平氏再興を図る知忠(ともただ)(知盛(とももり)の子)の挙兵に加わった。その後95年(建久6)東大寺供養に上洛(じょうらく)した源頼朝(よりとも)に降(くだ)り、八田知家(はったともいえ)に預けられたが、やがて飲食を断って死んだという。謡曲『大仏供養』、浄瑠璃(じょうるり)『出世景清』(近松門左衛門作)などで有名である。
[田辺久子]
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平景清
たいらのかげきよ
平安時代末期,鎌倉時代初期の武将。忠清の子。寿永2 (1183) 年源義仲との戦いに,平知盛らに従い,平氏の侍大将として活躍。平氏一門と行動をともにし,文治1 (85) 年2月の屋島の戦い,3月の壇ノ浦の合戦に奮戦,平氏滅亡後も生延びた。叔父の大日坊能忍を殺したことから「悪七兵衛」と呼ばれた。鎌倉幕府による平氏残党討伐が行われているさなか,東大寺大仏殿供養のため上京した源頼朝に建久6 (95) 年4月降伏,のち絶食して死んだという。後世,勇猛が喧伝され,浄瑠璃『出世景清』および謡曲『景清』などの素材となった。
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平景清 たいらの-かげきよ
?-? 平安後期-鎌倉時代の武将。
藤原忠清の子。平氏の侍大将。源義仲との戦いをはじめ一ノ谷,屋島,壇ノ浦と転戦。平氏滅亡後,逃亡中に早合点から叔父の大日能忍を殺害し悪七兵衛と称される。建久6年(1195)源頼朝に降伏したが,断食して死去したといわれる。のち浄瑠璃(じょうるり)「出世景清」などの題材となる。伊勢(いせ)(三重県)出身。
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平景清【たいらのかげきよ】
平安末・鎌倉初期の武士。平氏の侍大将。父は藤原忠清。勇猛で知られ,悪七兵衛(あくしちびょうえ)と称される。平氏一門とともに西走して各地に転戦,屋島の戦で美尾谷十郎と戦い,その冑(かぶと)の錣(しころ)を断ったのは有名。平氏滅亡後,1195年源頼朝に降伏,八田知家に預けられたが断食して死んだという。→景清
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たいら‐の‐かげきよ【平景清】
平安末期の武将。忠清の子。体躯偉大で勇猛の聞こえ高く、叔父大日坊を殺して悪七兵衛(あくしちびょうえ)と呼ばれた。寿永二年(一一八三)維盛、知盛に従って源義仲・行家と戦った。また屋島の戦いでの奮戦は名高い。のち頼朝に降り、断食して死んだという。謡曲、浄瑠璃などで有名。生没年不詳。
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デジタル大辞泉
「平景清」の意味・読み・例文・類語
たいら‐の‐かげきよ〔たひら‐〕【平景清】
[?~1196]平安末期の武将。伊勢の人。源義仲と戦い、のち、頼朝に降伏。断食して死んだという。伯父大日坊を殺したので悪七兵衛とよばれ、勇名は謡曲・浄瑠璃などの素材となった。
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たいらのかげきよ【平景清】
?‐1196(建久7)
平安末・鎌倉初期の武将。上総介藤原忠清の子。悪七兵衛景清と称された平家の侍大将。1180年(治承4)の源頼政との戦いをはじめ,源平争乱のなかで源義仲・行家との合戦,一ノ谷,備前児島の合戦など各地を転戦。壇ノ浦の戦で生きのび,95年(建久6)源頼朝に下り,翌年断食して死んだという。《平家物語》,謡曲,能などで悲劇的な英雄としてとりあげられる。【田中 文英】
[人物像の形成と展開]
景清について《平家物語》に語られる話としては,巻十一〈弓流〉の錣(しころ)引きがほとんど唯一のものである。
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世界大百科事典内の平景清の言及
【阿古屋】より
…柳田国男は,アコを〈我子〉つまり神子(みこ)の意味とし,巫女の通り名が物語のヒロインになる数多い例の一つと考えている。平景清【兵藤 裕己】。…
【嬢景清八島日記】より
…人形浄瑠璃。時代物。5段。通称《日向島》《盲景清》。若竹笛躬(ふえみ),黒蔵主(こくぞうす),中邑阿契(なかむらあけい)合作。1764年(明和1)10月大坂豊竹座初演。悪七兵衛景清の後日譚物で,日向に流された景清を娘が尋ねる三段目が歌舞伎に移され,とくに有名になった。景清の娘糸滝は,日向にいる盲目の父を都に連れ戻し仕官させたいと,わが身を手越の宿花菱屋に売ろうとする。孝心に感じた花菱屋の主人左次太夫に連れられ,日向まで糸滝は父を尋ねて来るが,盲目の乞食となった景清は,父は飢死したと偽り,帰そうとする。…
【弓流】より
…平曲の曲名,能の小書(こがき)名。(1)平曲。平物(ひらもの)。拾イ物。屋島の戦のおりである。平家方の船団から楯を持たせた武者が波打ち際に上がり,源氏方を招いた。源氏の三保谷十郎(みおのやのじゆうろう)たち5騎が向かったところ,楯の陰から強弓で射かけられ,三保谷の馬が倒れた。小太刀を抜いた三保谷に,楯から出て来た武者は大薙刀でかかってきた。三保谷が逃げ出すと,その兜の錣(しころ)をつかんで引き戻し,ついに錣を引きちぎって悪七兵衛景清(あくしちびようえかげきよ)と大音で名のった(〈拾イ〉)。…
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