朝日日本歴史人物事典 「黒井半四郎」の解説
黒井半四郎
生年:延享4(1747)
江戸中期,米沢藩(山形県)藩士で,算術に優れた水利事業家。黒井堰,飯豊穴堰の開削を計画,実行したことで知られる。通称は半四郎,幽量と号した。五十騎組半兵衛の嫡子。若いころより和算に優れ,江戸では藤田貞資に関流の算術を学んだ。明和5(1768)年に家督,禄高25石。安永1(1772)年,藩政改革のなかで勘定頭に抜擢され,寛政1(1789)年に中之間年寄に昇進して禄高250石。黒井堰は,米沢北方を流れる松川から堰を切り,旱魃に悩む北条郷に水を通したもので,穴堰は飯豊山から越後に流れる玉川の水を,200mの隧道を掘って米沢盆地の白川に流したものである。両堰とも半四郎自ら普請奉行として指揮をとったが,穴堰着工後に病没。<参考文献>『鷹山公偉蹟録』,『南陽市史』中
(横山昭男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報