世界大百科事典(旧版)内のErerukの言及
【アルメニア美術】より
…こういう民族的なキリスト教美術は,4世紀初キリスト教がアルメニアの国教として認められて(アルメニア教会),公的な聖堂建築が始まった当時から,すでにその独自な性格を発揮していたのであろうか。最古の遺例は6世紀にさかのぼるにすぎないが,アニ近郊のエレルクEreruk,テコルTekor(現,ディゴルDigor)の聖堂はバシリカ形式でシリアの聖堂建築によく似ており,かつイランの宮殿形式を反映する隔壁があるが,全体として5,6世紀のアルメニアは,シリアおよびヘレニズム要素を取り入れて構築法を研修した準備時代であったと考えられる。6世紀後半から7世紀末までがアルメニア建築の〈第1の隆盛期〉であって,バシリカ形式の存続するかたわら多数の集中式建築の聖堂が建てられ,円形,三葉形,四葉形など,プランも構造も種類に富み,そのなかから正方形と十字形を組み合わせたものがアルメニア聖堂建築の古典形式として将来の発展を保証される。…
※「Ereruk」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」