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明治から昭和前期の外交官、政治家。名は一般に「こうさい」と読まれる。熊本藩士の子で、1887年(明治20)帝国大学法科大学卒業、外務省に入る。在外勤務、農商務省課長を経て1897年外務省通商局長となる。以後政務局長、総務長官、清(しん)国公使、外務次官を歴任し、1907年(明治40)男爵。欧米在勤ののち、1909年子爵となり、第二次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の外相に就任。1916年(大正5)ロシア大使、その後原敬(たかし)、高橋是清(これきよ)、加藤友三郎内閣の外相を務め、伯爵となる。1926年枢密顧問官。1928年(昭和3)パリ不戦条約会議全権となるが、その条約文中の「其(そ)ノ各自ノ人民ノ名ニ於(おい)テ」が国内で問題となり、顧問官を辞任する。1930年貴族院議員、翌年満鉄総裁。満州事変では関東軍に協力し、1932年斎藤実(まこと)内閣の外相に就任すると、「国を焦土にしても譲らない」として「満州国」の承認を強行、「焦土外交」の異名をとった。翌年、国際連盟脱退を推進したが、昭和11年3月12日死去した。
[岡部牧夫]
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外交官。熊本県出身。1887年帝国大学法科大学を卒業,外務省に入る。外務省政務局長,同総務長官を歴任,1901年以降駐清公使,駐オーストリア,駐米各大使を務める。この間07年に男爵,11年に子爵となる。同年第2次西園寺公望内閣の外相となり,辛亥革命に対処するとともに第3次日露協約を結ぶ。16年駐露大使となったが,ロシア革命で帰国。18年原敬内閣の外相になり,シベリア出兵に反対し,ワシントン会議に対処した。25年枢密顧問官となり,28年のパリ不戦条約会議全権として渡仏,不戦条約に署名したが,同条約中の〈人民ノ名ニ於テ〉が国体観念に反するとして攻撃され枢密顧問官を辞任。31年満鉄総裁に就任,満州事変では関東軍の方針に同調,翌年斎藤実内閣に四たび外相として入閣,満州国承認問題に関連して〈焦土外交〉を提唱し,国際連盟脱退を主張するなど強硬路線を推進した。
執筆者:由井 正臣
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1865.8.1~1936.3.12
大正・昭和前期の外交官・政治家。肥後国生れ。東大卒。1887年(明治20)外務省入省。第2次西園寺・原・高橋・加藤友三郎の4内閣の外相を務め,シベリア出兵・パリ講和会議・ワシントン会議などに対処した。1925年(大正14)枢密顧問官に就任,28年(昭和3)不戦条約全権委員となるが,同条約批准問題により顧問官を引責辞任。満鉄総裁をへて,32年斎藤内閣の外相に就任,国際連盟脱退・満州国承認などを断行し,焦土外交と評された。
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外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...
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