五条兼永(読み)ごじょう・かねなが

朝日日本歴史人物事典 「五条兼永」の解説

五条兼永

生年生没年不詳
平安中期の刀工永延(987~89)ごろの三条宗近の子有国の子と伝え,長元(1028~37)ごろ京五条に住した。有銘作は2口あるだけで,うち重文の1口は銘が大きく,もう1口は小さい。作風は小鋒,反りの高い優美な姿で,鍛えは板目,刃文は小乱れに小互の目を交えるが,宗近のような古調さはなく,技巧的となっている。子に国永,兼次,兼安がいるが,国永以外現存作はない。

(原田一敏)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「五条兼永」の解説

五条兼永 ごじょう-かねなが

?-? 平安時代中期の刀工。
宗近(むねちか)の子とも孫ともいわれ,京都五条に居住した。五条派の代表的刀工で,現存する在銘作品に太刀(たち)2振りがある。

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世界大百科事典(旧版)内の五条兼永の言及

【山城物】より

…山城国は鉄をまったく産出しないが,平安時代以来,文化の中心地として刀鍛冶が多く活躍し,大和,備前,相州,美濃とともに刀剣の五大生産地の一つとなっている。山城鍛冶の繁栄は平安中期から江戸初期までの長期にわたるが,永延(987‐989)のころ三条に住した三条宗近が最も古く,ついで一門の三条吉家,五条兼永,五条国永ら古京物と称される一派がおこった。鎌倉初期には《宇治拾遺物語》にも〈粟田口の鍛冶〉とあるように,粟田口派があらわれて名工が輩出し,とくに国友,久国,国安の兄弟は後鳥羽上皇の番鍛冶に選ばれている。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」