加津庄
かつのしよう
小櫃川下流北岸に比定され、現在の大字勝が庄名の名残と考えられる。勝の西の三ッ作が応永二五年(一四一八)一〇月二九日の鎌倉公方足利持氏御教書(真田文書)に「加津庄内三佐古」とみえるので、勝・三ッ作一帯を中心として、西を飫富庄に、南を畔蒜庄横田郷に接した狭い庄園であったと考えられる。同御教書によると、かつて進士九郎左衛門尉重行(あるいはその父祖)が保持した庄内三佐古東西村地頭職を、前年一二月一一日の還補下文に任せて重行に交付するよう足利持氏が由比左衛門入道・村上民部丞に命じている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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