勝村(読み)かつむら

日本歴史地名大系 「勝村」の解説

勝村
かつむら

[現在地名]平田町勝賀かつが

野寺のでら村の北、長良川右岸に立地。村の北で長良川より大榑おおぐれ川が分流する。中世は大榑庄勝村郷として推移するが、同郷の成立は鎌倉期にさかのぼる。慶長郷帳に「かち村」とみえ、高一千六六五石余。慶長一五年(一六一〇)の徳川家康朱印状写(徳川林政史研究所蔵)によれば、当村一一石余が石河光忠領になっている。石河氏はのち尾張藩家老。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では、石河氏領一一石余のほか旗本日根野高継領一千六〇石余・同宮城豊盛領四三石余となっている。

勝村
かつむら

[現在地名]長浜市勝町

四ッ塚よっづか村の東にあり、東はむろ村・大辰巳おおだつみ村。寛永石高帳には高三八三石余、うち二六三石余は幕府領、一二〇石は総持そうじ寺領とある。元禄郷帳では同高で甲斐甲府藩領と総持寺領。天明村高帳では高四〇〇石余とあり、一二〇石余の総持寺領を除いて大和郡山藩領,延宝七年(一六七九)検地では反別一六町七反余、上々田九反余、上田一〇町九反余、中田一町九反余、下田七反余、上畑九反余、荒畑一反余、屋敷八反余とある(坂田郡志)

勝村
すりがちむら

[現在地名]住用村摺勝

東中間ひぎやなはま村の東に位置し、集落内海に臨む。住用すむゆう間切のうちで、スイッカチともいう。「大島私考」に住用間切一五ヵ村のうちとして「摺勝村」とみえ、高九二石余、うち享保内検後の開地は二石余、損地六石余。菅原神社に奉納された由来記(横板額)によれば、当村は衰微中絶の状況にあったが、名瀬なぜ方出身の間切与人佐久志と当間切出身黍横目稲真寿が広々とした当地に再び村を興そうと話合い、役所に申出たところ許可され、公命によって不如意の二五世帯六二人が居住することになり、慶応元年(一八六五)に菅原神社を建立している。

勝村
かつむら

[現在地名]袖ケ浦市勝

小曾根おぞね村の南東に位置する。中世の加津かつ庄の遺称地とされる。正保郷帳に村名がみえ、高三一一石余。寛永二年(一六二五)知行宛行状に賀津村とあり、三一一石余が旗本富永氏に与えられている。同氏の知行は慶長二年(一五九七)からで、幕末まで続く(谷中区有文書・島村家文書など)。宝永八年(一七一一)検地帳(勝区有文書)によると田三四町八反余・畑三町八反余、屋敷一町二反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報