世界大百科事典(旧版)内のHubertusburgの言及
【七年戦争】より
…ところがその翌年1月,ロシアの女帝エリザベータ・ペトロブナが没し,フリードリヒ2世の崇拝者ピョートル3世が即位したため,ロシアは兵を引き揚げ,プロイセンは窮地を脱した。ここにおいて,独力で戦争を続ける力のないオーストリアは,63年2月15日,ザクセンのフベルトゥスブルクHubertusburgの和でプロイセンと講和し,シュレジエンを最終的に放棄した。 この間,フランスの同盟国スペインをも巻き込んで展開されていた英仏間の植民地戦争も,インドやカナダ,西インド諸島におけるフランス側の敗退ののち,1763年2月10日のパリ条約で終結をみた。…
【シュレジエン戦争】より
…オーストリアも5月フランスとの同盟に成功すると,フリードリヒ2世は七年戦争に踏み切る。プロイセンは,クンネルスドルフの敗戦やベルリン占領など苦境に立つが,62年ロシアの政変に救われ,63年フベルトゥスブルクHubertusburgの和を結び,シュレジエンを確保し,その後の発展を決定的にした。【進藤 牧郎】。…
※「Hubertusburg」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」