世界大百科事典(旧版)内のKöniggrätzの言及
【オーストリア】より
…帝位を継ぐべき息子ルドルフは心中し,妃エリーザベトはアナーキストの凶刃に倒れた。66年オーストリアは,ケーニヒグレーツKöniggrätzの戦でプロイセンに敗れ,翌67年いわゆるアウスグライヒAusgleich(妥協)を通してオーストリアとハンガリーとの二重帝国が成立し,オーストリアは軍事と外交を除くすべてを自立したハンガリーの手にゆだねた(オーストリア・ハンガリー二重帝国)。第1次世界大戦前の相対的安定期にはオーストリア・ハンガリーの経済は急速に発展した。…
【普墺戦争】より
…プロイセン首相ビスマルクは,イタリアとの同盟を結び,フランス・ロシアの介入を阻止しつつ,オーストリアを戦争へと追い込んだ(1866年6月)。プロイセン軍はオーストリア軍をボヘミアのケーニヒグレーツKöniggrätzの戦で破って大勢を決し,大方の予想を裏切り,戦いはわずか7週間で決着がつけられた。プラハの和約(1866年8月23日)によってオーストリアはドイツから排除され,さらに北ドイツ連邦の成立(1867)によってプロイセン中心のドイツ統一事業は大きく前進した。…
【フラデツ・クラーロベー】より
…チェコ中部,東ボヘミア地方の中心都市。ドイツ名はケーニヒグレーツKöniggrätz。人口10万1000(1996)。…
※「Königgrätz」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」