ドイツ統一をめぐるプロイセンとオーストリアとの戦争。プロイセン・オーストリア戦争ともよばれる。ドイツでは1860年になお,35の君主国と4自由市に分裂しており,ドイツ統一への要求は切迫したものとなっていた。このドイツ統一の覇権争奪をめぐり普墺両国の対立も深化していた。プロイセン首相ビスマルクは,イタリアとの同盟を結び,フランス・ロシアの介入を阻止しつつ,オーストリアを戦争へと追い込んだ(1866年6月)。プロイセン軍はオーストリア軍をボヘミアのケーニヒグレーツKöniggrätzの戦で破って大勢を決し,大方の予想を裏切り,戦いはわずか7週間で決着がつけられた。プラハの和約(1866年8月23日)によってオーストリアはドイツから排除され,さらに北ドイツ連邦の成立(1867)によってプロイセン中心のドイツ統一事業は大きく前進した。
この戦争はプロイセン陸軍史においても画期的意義をもった。モルトケを中心とする参謀本部の権威は決定的に高まり,後年国王と参謀総長との直結関係(直奏権)の確立の伏線となった。またモルトケはナポレオン戦争の軍事戦略の理論的定式化を行ったクラウゼウィツの《戦争論》を,産業革命の成果と結合させた。それは鉄道や電信・電話の軍事的利用となってあらわれ,普墺戦争の主戦場となったザクセン・ボヘミア方面には,オーストリアの鉄道1本に対して,プロイセンのそれは5本が敷設されていたし,電信・電話による連絡網は,近代的大規模軍隊の統御を容易にした。また,この戦争においてオーストリア軍の前装式銃砲に対し,プロイセン軍の後装式銃砲の優越が明らかにされた。総じて普墺戦争は,後年の普仏戦争とともに,近代的大衆軍隊の有効性と用兵術を内外に明らかにし,ヨーロッパ兵学界に甚大な影響を与えた。
また内政的にはプロイセン軍隊の権威を高め,プロイセン軍国主義の確立という歴史的負債を残すことになり,さらに戦争の勝利は,それまで軍備拡張に反対し,軍隊を議会の統制下におこうと闘争してきたプロイセン自由主義派の企図を挫折させ(プロイセン憲法紛争),自由主義主流派のビスマルク与党化をもたらした(国民自由党の成立)。
執筆者:望田 幸男
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…しかしブルジョアジーの台頭と諸民族のナショナリズムの高まりのもとで,反動的な官僚主義と啓蒙的な君主思想のはざまにあって悩み続ける。ことに59年のイタリア独立戦争,66年の普墺戦争に敗れてイタリアとドイツから排除されると政策上も中央集権化と諸民族の連邦化との間を動揺する。ドナウ帝国の再建のために67年ハンガリーとアウスグライヒAusgleich(妥協)を行い,オーストリア・ハンガリー二重帝国を成立させるが,犠牲にされたスラブ系諸民族の不満は高まる。…
…そこで61年,彼がウィルヘルム1世として即位すると,王はユンカー出身の保守主義政治家ビスマルクを招いて首相に任じ(1862),ここに軍事予算問題をめぐる〈プロイセン憲法紛争〉が燃え上がった。ビスマルクは議会の反対を無視して軍備拡張を強行,この軍事力と巧みな外交工作により普墺戦争でオーストリアを倒し,プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を組織,さらに普仏戦争の勝利により,南ドイツ諸邦をもこれに組み入れるかたちでドイツ帝国の建設をなしとげた。 ドイツ帝国は,なお連邦体制を維持したものの,プロイセン王が世襲の皇帝として君臨し,ビスマルクが帝国宰相に任ぜられたことが示すように,まったくプロイセン主導の国家であった。…
※「普墺戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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