普墺戦争(読み)フオウセンソウ(英語表記)Deutscher Krieg

デジタル大辞泉 「普墺戦争」の意味・読み・例文・類語

ふおう‐せんそう〔フアウセンサウ〕【普墺戦争】

1866年、プロイセンオーストリアとの間でドイツ統一の主導権をめぐって行われた戦争。シュレスウィヒ‐ホルシュタインの帰属問題をきっかけに開戦。プロイセンが大勝し、ドイツの盟主となった。

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精選版 日本国語大辞典 「普墺戦争」の意味・読み・例文・類語

ふおう‐せんそうフアウセンサウ【普墺戦争】

  1. 一八六六年プロイセンとオーストリアとの間でドイツ統一の主導権をめぐって行なわれた戦争。ビスマルクの外交手腕と、モルトケ作戦でプロイセンが大勝。プラハの和約が結ばれ、プロイセンの北ドイツ連邦組織が承認され、ドイツ統一の基礎が完成し、プロイセンは事実上ドイツの中心となった。プロイセン‐オーストリア戦争。

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改訂新版 世界大百科事典 「普墺戦争」の意味・わかりやすい解説

普墺戦争 (ふおうせんそう)
Deutscher Krieg

ドイツ統一をめぐるプロイセンとオーストリアとの戦争。プロイセン・オーストリア戦争ともよばれる。ドイツでは1860年になお,35の君主国と4自由市に分裂しており,ドイツ統一への要求は切迫したものとなっていた。このドイツ統一の覇権争奪をめぐり普墺両国の対立も深化していた。プロイセン首相ビスマルクは,イタリアとの同盟を結び,フランス・ロシアの介入を阻止しつつ,オーストリアを戦争へと追い込んだ(1866年6月)。プロイセン軍はオーストリア軍をボヘミアケーニヒグレーツKöniggrätzの戦で破って大勢を決し,大方の予想を裏切り,戦いはわずか7週間で決着がつけられた。プラハの和約(1866年8月23日)によってオーストリアはドイツから排除され,さらに北ドイツ連邦の成立(1867)によってプロイセン中心のドイツ統一事業は大きく前進した。

 この戦争はプロイセン陸軍史においても画期的意義をもった。モルトケを中心とする参謀本部権威は決定的に高まり,後年国王と参謀総長との直結関係(直奏権)の確立の伏線となった。またモルトケはナポレオン戦争の軍事戦略の理論的定式化を行ったクラウゼウィツの《戦争論》を,産業革命の成果と結合させた。それは鉄道や電信・電話の軍事的利用となってあらわれ,普墺戦争の主戦場となったザクセン・ボヘミア方面には,オーストリアの鉄道1本に対して,プロイセンのそれは5本が敷設されていたし,電信・電話による連絡網は,近代的大規模軍隊統御を容易にした。また,この戦争においてオーストリア軍の前装式銃砲に対し,プロイセン軍の後装式銃砲の優越が明らかにされた。総じて普墺戦争は,後年の普仏戦争とともに,近代的大衆軍隊の有効性と用兵術を内外に明らかにし,ヨーロッパ兵学界に甚大な影響を与えた。

 また内政的にはプロイセン軍隊の権威を高め,プロイセン軍国主義の確立という歴史的負債を残すことになり,さらに戦争の勝利は,それまで軍備拡張に反対し,軍隊を議会の統制下におこうと闘争してきたプロイセン自由主義派の企図を挫折させ(プロイセン憲法紛争),自由主義主流派のビスマルク与党化をもたらした(国民自由党の成立)。
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百科事典マイペディア 「普墺戦争」の意味・わかりやすい解説

普墺戦争【ふおうせんそう】

プロイセン・オーストリア戦争とも。1866年プロイセンとオーストリア間で行われた戦争。シュレスウィヒ・ホルシュタイン問題が端緒。ドイツ連邦諸国の多くはオーストリア側についたが,ビスマルク首相のもと参謀総長モルトケの率いるプロイセン軍はケーニヒグレーツの戦でオーストリア軍を大破,7週間で完勝した。オーストリアはドイツ連邦を脱退,同連邦は解体しドイツにおけるプロイセンの覇権が確立した。
→関連項目アウスグライヒオーストリア北ドイツ連邦大ドイツ主義ドイツビアリッツの密約ボイスト

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旺文社世界史事典 三訂版 「普墺戦争」の解説

普墺戦争
ふおうせんそう
Austro-Prussian War

1866年,ドイツ統一の主導権をめぐってプロイセンとオーストリアの間に行われた戦争
デンマーク戦争後の1865年,プロイセン・オーストリア両国はシュレスヴィヒ・ホルシュタインの処分をめぐり,ガシュタイン協定を結んだ。翌年,オーストリアがその変更を策したとして,プロイセンはオーストリア領のホルシュタインに侵入。プロイセンは,すでにビスマルクが「鉄血政策」を掲げて軍備を拡張し,ロシア・フランス・イタリアなどに外交的工作を行って機会をうかがっていた。開戦後はモルトケ参謀総長の作戦により,オーストリア軍の主力をサドヴァの戦いに破り,7週間で大勢を決した。そのため“7週間戦争”ともいわれ,産業革命を背景とする,鉄道・電信・電話の利用が決定的な役割を果たした。プラハ条約が結ばれ,オーストリアはドイツ連邦から脱退して干渉しないこと,シュレスヴィヒ−ホルシュタインをプロイセンに与えることなどを約した。プロイセンはドイツ諸邦を併合し,翌1867年北ドイツ連邦を組織してみずから盟主となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「普墺戦争」の意味・わかりやすい解説

普墺戦争
ふおうせんそう

プロイセン・オーストリア戦争

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「普墺戦争」の解説

普墺戦争(ふおうせんそう)

プロイセン‐オーストリア戦争

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「普墺戦争」の意味・わかりやすい解説

普墺戦争
ふおうせんそう

「プロシア=オーストリア戦争」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の普墺戦争の言及

【ハプスブルク家】より

…しかしブルジョアジーの台頭と諸民族のナショナリズムの高まりのもとで,反動的な官僚主義と啓蒙的な君主思想のはざまにあって悩み続ける。ことに59年のイタリア独立戦争,66年の普墺戦争に敗れてイタリアとドイツから排除されると政策上も中央集権化と諸民族の連邦化との間を動揺する。ドナウ帝国の再建のために67年ハンガリーとアウスグライヒAusgleich(妥協)を行い,オーストリア・ハンガリー二重帝国を成立させるが,犠牲にされたスラブ系諸民族の不満は高まる。…

【プロイセン】より

…そこで61年,彼がウィルヘルム1世として即位すると,王はユンカー出身の保守主義政治家ビスマルクを招いて首相に任じ(1862),ここに軍事予算問題をめぐる〈プロイセン憲法紛争〉が燃え上がった。ビスマルクは議会の反対を無視して軍備拡張を強行,この軍事力と巧みな外交工作により普墺戦争でオーストリアを倒し,プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を組織,さらに普仏戦争の勝利により,南ドイツ諸邦をもこれに組み入れるかたちでドイツ帝国の建設をなしとげた。 ドイツ帝国は,なお連邦体制を維持したものの,プロイセン王が世襲の皇帝として君臨し,ビスマルクが帝国宰相に任ぜられたことが示すように,まったくプロイセン主導の国家であった。…

※「普墺戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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