世界大百科事典(旧版)内のMarjDābiqの言及
【マムルーク朝】より
…バルスバイは財政補塡のために砂糖の専売政策を実施したが根本的な解決策とはならず,1498年のバスコ・ダ・ガマによるインド航路発見によって,中継貿易に基礎を置くエジプト経済は致命的な打撃を受けた。すでに16世紀初頭からオスマン帝国との間に確執を生じていたマムルーク朝は,1516年マルジュ・ダービクMarj Dābiqの戦でセリム1世に敗れてシリアを失い,翌年カイロを占領されて王朝は滅びた。 スルタンを頂点とするマムルーク体制を支えていたのは奴隷出身のマムルーク軍人であり,バフリー・マムルーク朝時代にはトルコ人,モンゴル人,クルドが中心であったのに対して,ブルジー・マムルーク朝時代にはカフカス出身のチェルケス人が主力を占めるに至った。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」