北村(読み)キタムラ

デジタル大辞泉 「北村」の意味・読み・例文・類語

きたむら【北村】

姓氏の一。
[補説]「北村」姓の人物
北村薫きたむらかおる
北村季吟きたむらきぎん
北村西望きたむらせいぼう
北村透谷きたむらとうこく
北村竜平きたむらりゅうへい

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日本歴史地名大系 「北村」の解説

北村
きたむら

[現在地名]河原町北村

曳田ひけた川の上流部に位置し、東は弓河内ゆみごうち村。西にたか(一〇五三・六メートル)を望む。北は山越えで高草たかくさ岩坪いわつぼ(現鳥取市)に通じる。村名の由来は、当村の北村姓の祖とされる北村若狭守が移住してきたことにちなむといわれ、若狭守の墓と伝えられる宝篋印塔が残る。一説に弓河内村の岡家の祖とされる岡中務と北村若狭守は同一人物ともいわれる(初稿八頭郡誌)。支村としてそま小屋ごやおち河内こうちがあり、現在は前者が杣小屋、後者が落河内おちがこうちとなっている。

弓河内村の枝郷で、正保国絵図・正保郷帳には記載がなかったが、元禄国絵図元禄郷帳では弓河内村から高分けして記載された(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。元禄郷帳によると高三三七石余。正徳元年(一七一一)郷村高辻帳では高二五九石余(拝領高に相当)。本免五ツ五分。津田氏の給地であった(給人所付帳)。「因幡志」では家数一〇六(うち落ノ河内六・そま小屋一〇)。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では弓河内村の支村であった上村を含め生高四三二石余、竈数九八、ほかに寺屋敷一。

北村
きたむら

面積:九六・四九平方キロ

空知支庁南西部にある管内唯一の村。空知郡に属する。明治三三年(一九〇〇)七月同郡岩見沢村から分村して成立し、同年戸長役場が設置された。村域はほぼ三角形をなし、南東は約一九キロにわたる直線で岩見沢市と区画され、北東は道道峰延みねのぶ月形つきがた線を境に美唄市、北西は石狩川を境として樺戸かばと郡月形町および石狩支庁石狩郡新篠津しんしのつ村、南西は旧石狩川を境に石狩支庁江別市に接する。石狩低地帯に属する平地で、土地の高低差はわずか八・一メートル。石狩川沿岸の土地は肥沃な沖積層だが、沿岸から遠ざかるにつれて泥炭地となり、村面積の六割を占め小河川や湖沼も多かったが、しだいに埋立てられて残っているものは少ない。平坦な土地のため、夏は南西の風、冬は北西の風が吹き抜け、気温は年平均摂氏七・五度、年平均降水量は一二四七・九ミリ。明治三三年の開村当時は戸数四一〇・人口二千四五三、行政区を六区に分けたが、大正八年(一九一九)の二級町村制施行時には戸数六三六・人口三千七八四で一二行政区となった。昭和一八年(一九四三)には指定村とされ、同二二年の市町村制改正によって普通村となった(北村百年史稿)

北村
きたむら

[現在地名]伊丹市北伊丹きたいたみ一―九丁目・みどりおか一―五丁目・同七丁目・春日丘かすがおか一―六丁目・大鹿おおじか一―二丁目・清水しみず四丁目・北園きたぞの一―三丁目・鋳物師いもじ一―五丁目・高台たかだい一―五丁目

喜多村とも(「増補御領地雑事記」森本家文書)北河原きたがわら村の北西に位置し、山陽道が東西に、多田院ただいん丹波道が南北に通る。枝郷として鋳物師・伊丹坂いたみざかつじの四ヵ村があり、当村と併せて大路おおじ四ヵ村と称した(「奥谷池論記録」坂戸家文書ほか)慶長国絵図では北村と伊丹坂村だけが描かれ高六八二石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳には北・いもし・辻・伊丹坂の各村がみえる。天和三年(一六八三)頃の摂津国御料私領村高帳では摂津麻田藩領北村(当村と鋳物師村)が高四九三石余、旗本大橋領北村が高一八九石余。

北村
きたむら

[現在地名]美土里町北

桑田くわた村の東に位置し、東は羽佐竹はさたけ来女木くるめぎの両村(現高宮町)、北西の生田いけだ村寄りの生田川が曲流しながら村内をほぼ東に流れ、その沖積平地山際に集落がある。「芸藩通志」に「広一里十九町余、袤一里、南北連峰あり、東西に亘り屏のごとし、中間に村をなせり、一川村中を過ぎ、東に出る」とある。

毛利元就の異母弟四郎就勝は、出家して常楽じようらく(跡地は吉田町)の住持となったが、のち還俗して北村を領し、居を構えて北氏を称したといわれるが、村内の金井谷かないだに曾根そねの森という所があり、「国郡志下調書出帳」に「此森を村人毛利様と申、近年村方追払人惣三郎申者、自身系図之書に毛利隆元公佐々部和佐田の墓を毛利飛騨守・同姓日向守此中ノ曾根へ奉移由申候」とあり、就勝に関係ある土地と考えられる。

北村
きたむら

[現在地名]河南町北村

広淵ひろぶち村の西に位置し、旭山あさひやま丘陵とその麓に集落が点在する。丘陵が多くを占める複雑な地形から「七田七崎八沢」と称され、通称俵庭たわらにわ表沢おもてさわ小崎こさき箱清水はこしみず大沢おおさわ大番所おおばんどころ青木あおき朝日あさひなどの集落がある。当地の箱清水は、元和二年(一六一六)の伊達政宗領知黒印状(伊達家文書)深谷ふかやのうち「はこ清水谷地」とみえ、同状によれば他二ヵ所との合計二〇〇貫文の地が一四人に給付されており、五年間は荒野扱いで、検地ののち余剰分は蔵入とするとしている。正保郷帳に村名がみえ、田六七貫七一八文・畑五貫九三二文で旱損と注され、ほかに新田一二貫八九一文。

北村
きたむら

[現在地名]七塚町浜北はまきた

河北郡北西部、日本海に面し、内灘うちなだ砂丘の一部である河北台かほくだい砂丘上に位置。北は遠塚とおづか村、南は秋浜あきはま村、東は宇野気新うのけしん村・笠島新かさしましん(現宇ノ気町)。慶長六年(一六〇一)一二月一三日付の石川郡・河北郡一六ヵ村の浜方地子を免除した前田利長判物(加賀藩史料)に「あき浜村、上あき浜村」とあり、このうち「あき浜村」が当村と推定されている(七塚町史)。無高所で、寛文一〇年(一六七〇)の村御印では小物成のみ記載。地子銀一四〇匁、塩釜役七八匁(ほか三九匁退転)・外海船櫂役一六一匁(退転)・外海引網役六〇匁(出来)・塩役二二匁四分(出来)・六歩口銭八分(出来)であった(三箇国高物成帳)

寛文七年の御材木船割符のため船を改めた時の三ヵ国浦方三〇〇石積以上の船数覚(「御分国船持中定書等諸留」中山文書)では、五兵衛が五〇〇石積、一三人乗の船一艘を所持していた。

北村
きたむら

[現在地名]加茂町大字北・大字山田やまだ

木津きづ川南岸、川に沿って東西に細長い村域を占める。集落はその西方平野部や山際にある。南は兎並うなみ村、東は南笠置みなみかさぎ(現笠置町)。村内の兎並村境を奈良と伊賀を結ぶ木津川南側の伊賀街道が通る。

古代に岡田おかだと称された地の中心と思われ、岡田鴨おかだかも神社の鎮座地であるところから、賀茂氏の居住地であった古代賀茂郷の中心地ともされ、和銅元年(七〇八)九月二二日、元明天皇が「行幸山背国相楽郡岡田離宮(続日本紀)とある離宮は当地にあったといわれる(山城志)

北村
きたむら

[現在地名]蒲生町北

上久徳かみぎゆうとく村の西に続き、前郷まえごう川左岸沿いから同川支流の田平たびら川流域を村域とする。前郷川対岸は久末ひさすえ村、西は白男しらお村。中世は蒲生院のうちにあった。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)に蒲生院内の久得ぎゆうとく七二町余のうちとして「久富 名主西俣三郎清幸」がみえる。「蒲生郷土誌」は久富ひさとみは現在の北にあたるとしており、北村氏系図(同書)は北村氏二代清久(蒲生氏四代清直の孫)について「清久久富ヲ領ス、故ニ或ハ久富ト号ス」と記している。なお弘安一〇年(一二八七)七月日の宮侍守公神結番次第写(調所氏家譜)の六番に「蒲生西(俣カ)三郎」の名がみえる。

北村
きたむら

[現在地名]静岡市北・柳原やなぎはら

浅服あさはた山の北東、ともえ川の最上流域に位置し、南は羽高はたか村など。浅畑あさばた七郷の一つ(駿河志料)。鎌倉末期には浅服庄内に北村郷があった。嘉元四年(一三〇六)四月一四日の時家譲状(千竈文書)に「あさはたのしやうのうち、きたむらのかう」とみえ、浅服庄内北村郷の郷司職を、得宗被官千竈時家が烏丸女房の死後に嫡子貞泰に譲るとしている。領主の変遷はいけ村と同じ。元禄郷帳・天保郷帳では高五三〇石余、旧高旧領取調帳では高五二四石余。「駿河記」では家数五〇。

北村
きたむら

[現在地名]大和町大字尼寺にいじ

文化一四年(一八一七)の郷村帳によれば、上佐賀下郷の北村は五領・馬場の地を含むが、駄市川原だいちがわらをも含んでいると思われる。嘉瀬かせ川に接し洪水の危険の多い水田地帯であり、尼寺村にも近く交通の便にも恵まれている。

駄市川原の北村天満宮は慶長一二年(一六〇七)銘の肥前鳥居をもち町内で最も古い紀年銘だが、佐賀―川上かわかみの交通路に面して比較的古くから発達していた。承安三年(一一七三)の清原兼平畠地去渡状案(河上神社文書)に記されている「佐嘉郡山田東郷川原村」は、四至が東は「小津溝」、北は「高瀬古大路」、西は「大川」、南は「府大路」を限るとされ、明確ではないが嘉瀬川の東、府大路ふおおじの北にあるということから現在の駄市川原付近と考えられる。

北村
きたむら

[現在地名]野洲町北

小南こみなみ村の南にある。東辺を朝鮮人街道が走り、西辺は祇王井ぎおうい川によって虫生むしゆう(現中主町)と隔てられる。ほぼ長方形の村域の中央部の字里之内さとのうちに集落が集中し、その一角に六角氏家臣木村氏の城館跡が残る。集落周辺の耕地は不規則な地割だが、東部には条里地割と八ノ坪・十五の条里呼称が認められる。村名は江辺えべ庄の北を意味する。永禄八年(一五六五)五月一五日には北村・永原ながはら村・中北なかきた村の三ヵ村百姓中に、祇王井の管理を先例どおり認める六角承禎御教書(北共有文書)が与えられた。

北村
きたむら

[現在地名]北島町北村

太郎八須たろうはちず村の西に位置し、南はなか村、西は吉野川(現旧吉野川)を挟み新喜来しんきらい村、北は東馬詰ひがしうまづめ村・中馬詰村(現鳴門市)。慶長二年(一五九七)の分限帳に村名がみえ、六一五石余が置塩領であった。置塩領は同八年に蜂須賀至鎮に与えられ、徳島藩領となった(渭水聞見録)。正保国絵図では高六一六石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方三二八石余・畠方二八七石余、日損の注記がある。慶安三年(一六五〇)の蜂須賀光隆領分高并当物成帳によれば、北村新開の一二石余が蜂須賀光隆領(部屋住領)で、物成五石余、内麦四石余。

北村
きたむら

[現在地名]四日市市南富田みなみとみだ

北は東富田ひがしとみだ村と家並続き、南には茂福もちぶく村がある。東海道に沿って民家が並び、村の中央を十四じゆうし川が東流する。慶安郷帳(明大刑博蔵)以下の各郷帳とも茂福村の枝郷とする。慶安郷帳には「塩浜有」と記す。江戸時代を通じて桑名藩領。寛政八年(一七九六)の朝明郡絵図控(豊田次男氏蔵)では戸数二二。文政一〇年(一八二七)の桑名領郷村案内帳によれば、本高のほか村高と称する新田分一二石余、浜新田六石余がある。免は六ツ五分。戸数三二のうち家持二四・無高八。人数一五四。牛二。寺院は東海道の東側に善教ぜんきよう(真宗高田派)、東海道沿いに薬師堂。

北村
きたむら

[現在地名]賀陽町北

宮地みやじ村の北、西にし村の東方に位置し、槙谷まきだに川の上流域、大和おおわ山の南麓に広がる。寛永備中国絵図に村名がみえ、高二八六石余。正保郷帳では高三四九石余、枝村に川津原かわづばら村・舟越ふなこし村が記される。元禄八年(一六九五)の旧松山領新高帳(羽場文書)によれば、古高八二一石余・新高一千一五石余。領主の変遷は岨谷そわだに村に同じ。庄屋は野山氏が務めた。慶応四年(一八六八)の松山藩全域にわたる百姓一揆(松山領騒動)には当村からも参加している。

日蓮宗妙本みようほん寺およびもと同寺末の松王山妙音みようおん寺などがある。妙音寺は嘉元二年(一三〇四)または正和元年(一三一二)に真言宗または天台宗から改宗したといい、持高五〇石余を有した(備中誌)

北村
きたむら

[現在地名]堺市八田北はんだきた町・宮園みやぞの町・八田西はんだにし町一―三丁

八田寺はんだいじ村および堀上ほりあげ村の南に位置し、村の東側草部くさべ村境を石津いしづ川が北流する。大鳥郡に属する。中世は蜂田はちた庄に含まれた。慶長九年(一六〇四)徳川幕府は和泉国全体に指出検地を実施したが、当村は五一八石余と高付された。名請人一六四人に対して三反以下の登録人は一三五人に達し、零細な土地所有者が非常に多いことを示している(同年「大鳥郡八田庄北村御指出帳」東京大学史料編纂所蔵)

北村
きたむら

[現在地名]武生市北町

浅水あそうず川の上流文室ふむろ川の西岸、平野中にあって、西は千僧供せんぞく庄の各村、南は杉崎すぎさき村。中世は京都祇園社領の「杉前三ケ村」の一村か。「太平記」巻一九(新田義貞落越前府城事)高木たかぎ瓜生うりう真柄まがらなどとともに焼払われたことが記され、また応仁二年(一四六八)に永平寺住山となった建撕の著「建撕記」に「覚念、今ノ北村真柄ノ先祖ナリ」とみえる。

北村
きたむら

[現在地名]綾南町北

羽床上はゆかかみ(現綾上町)・同下村の北に位置し、江戸時代初期には羽床北村とも称した。北西流するあや川の北側の標高五〇―六〇メートルの丘陵地帯に立地。天正一九年(一五九一)七月二五日の生駒近規宛行状写(長谷川文書)によれば、生駒氏は羽床北村の替地として櫛無くしなし(現仲多度郡琴平町)で天野分二五〇石を長谷川武左衛門に宛行っている。寛永国絵図では羽床郷の内。慶長一四年(一六〇九)の生駒一正預ケ状(生駒家宝簡集)で「喜多村」の高七七石余が尾池玄蕃に預けられている。

北村
きたむら

[現在地名]多治見市喜多町きたまち太平町たいへいちよう

野中のなか村の南、大原おおはら川西岸にあり、今渡いまわたり(現可児市)へ通ずる街道に沿った小集落。近世初めは池田いけだ村のうちに含まれ平岡頼勝(徳野藩)領。元和七年(一六二一)には平岡氏から伏屋市兵衛に「北村」と野中村の計一三七石余などが与えられている(「伏屋市兵衛知行目録」伏屋文書)。元禄郷帳では高三一一石余、幕府領。文化七年(一八一〇)の村明細帳によれば田一九町三反余・畑三町余、家数四一(うち寺一・山伏一)・人数一八一。用水は才竹さいたけ川・谷水より取り、井堰六・溜池一がある。田畑への砂入りが多く、石盛は他村に比べやや低い。

北村
きたむら

[現在地名]檜山郡上ノ国町字北村・字内郷うちごう

近世から明治三五年(一九〇二)まで存続した村。上ノ国村・大留おおどめ村の北、あまノ川の河口北側に位置する。北はとど川を挟んで五勝手ごかつて(現江差町)、西は日本海に面する。元禄郷帳・享保十二年所附に喜多村、天保郷帳には北村とみえる。元禄一三年(一七〇〇)の支配所持名前帳によると、北村と目名川めながわ(天ノ川支流目名川流域とみられる)は松前藤兵衛の支配地であった。天明六年(一七八六)の「蝦夷拾遺」によれば戸数九〇足らず、人口三六〇余。

北村
きたむら

[現在地名]大東町北村

中屋なかや村の東、あか川の支流須賀すが川中流域と支流大谷おおだに川流域に位置する。「出雲国風土記」大原郡条にみえる船岡ふなおか山は当村の船岡山(一四〇メートル余)とされる。同書に「阿波枳閇委奈佐比古命の曳き来て居ゑましし船、則ち此の山是れなり。故、船岡と云ふ」と地名起源説話が記される。慶長七年(一六〇二)の北村検地帳によると田方一二町九反余・分米一八六石余、畑方四町九反余・分米二九石余、屋敷数二五。元禄十年出雲国郷帳では高二六九石余、寛文四年(一六六四)の本田高二六〇石余・新田高一石余。「雲陽大数録」では高二二〇石。「郡村誌」によると戸数五四(うち社二・寺二)・人数二三五、民業は農業八戸・工業七戸・炭焼三五戸、物産は生茶三〇貫目・楮二〇〇貫目・桐油実八石・炭。

北村
きたむら

[現在地名]八日市市建部北町たてべきたまち

上中かみなか村の東にあり、東を愛知えち川が北流する。永正元年(一五〇四)の小幡商人と保内商人の塩売買をめぐる争いの際、小幡商人の足子として報告された者のなかに小脇おわき塩商人寄子の「北村之源四郎」の名がみえる(一二月一七日「建部胤泰書状」今堀日吉神社文書)。慶長三年(一五九八)七月の御蔵入目録(浅野家文書)に建部と注記して北村とみえ、高五八四石余。慶長高辻帳では五六六石余(うち小物成二斗)、彦根藩領。耕地の多くは近世初期から水田化され、明暦四年(一六五八)の検地帳(建部北町共有文書)では田二九町余・畑二町一反余・屋敷七反余と田が圧倒的に多い。ただし同帳によれば総面積三二町八反余のほかに八町四反余に及ぶ荒河原があり、愛知川沿い耕地は不安定な状態であった。

北村
きたむら

[現在地名]鳥取市北村

本高もとだか村の南西、有富ありどめ川左岸に位置する。同川下流西方の山下に支村の花色はないろがある(因幡志)。天文一四年(一五四五)二月吉日の広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)社家肥塚家の檀那村付帳に「きた村助さへもん殿」とみえる。藩政期の拝領高は四八一石余、本免六ツ一分。藪役銀一二匁・山役銀三匁五分が課されていた(藩史)。山池の池田氏、横山氏・熊沢氏・山本氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数四一。天保一四年(一八四三)の村々人数増減書上帳(加藤家文書)によると男六二・女六〇。嘉永二年(一八四九)の組合帳(同文書)では竈数二一。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高五三四石余、竈数二五。

北村
きたむら

[現在地名]守口市大久保おおくぼ町二―五丁目など

金田きんだ村の東南方にあり、近世大久保郷の一村。中世には大窪おおくぼ庄のうちであったと思われるが、播州青原寺蔵大般若経巻一一〇の奥書に「応安五年(中略)河内国茨田郡(波)志者庄北村(下略)」とみえ、この北村が当地であれば波志波はしば庄に含まれていたことになる。ただし波志波庄は東・西両橋波はしば一帯に比定されており、地域的に相当離れている当地が同庄内であったか否か検討を要する。

北村
きたむら

[現在地名]中土佐町久礼くれ

楠の川くすのかわ川より流れる久礼川(通称大川)を隔てて久礼村(久礼本村)の北側に開けた農村。地名について「土佐州郡志」は「在本村ノ北、故名」と記す。天正一六年(一五八八)の久礼分地検帳に久礼村の小村として北村がみえ、江戸時代の北村はこのほかにクスかわ大棚おおたな松川まつのかわ柚川ゆのかわ伊佐子いさこ萩原はぎはら土淵つちぶち和田わだの小村を合せた計三一町五反余、ヤシキ五二筆の地と推定される。久礼城主佐竹氏分。

江戸時代には久礼村の枝郷で久礼村庄屋の管轄下にあり、元禄郷帳によれば本田高三一四石余。

北村
きたむら

[現在地名]龍野市龍野町小宅北たつのちようおやけきた

東を宮脇みやわき村、西を上堂本かみどうもと村・下堂本村に挟まれた南北に細長い村。揖東いつとう郡に属する。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は寛文一二年(一六七二)龍野藩領となるまでは北龍野村と同じ、延享四年(一七四七)以後は島田しまだ村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高一三二石余、高一〇九石余。正保郷帳では田方九六石余・畑方一二石余。元禄郷帳には「小宅北村」と記され、高一一〇石余。

北村
きたむら

[現在地名]土佐山田町みやくち

舟谷ふなだに村の西、物部ものべ川東岸に沿い、南は神母いげの集落。片地かたじ(村)一三ヵ村の一であるが、北隣の宮ノ口村に含まれる場合もある。

天正一六年(一五八八)の山田郷地検帳に記される北村二五筆六町八反余のなかには、楠目くずめ城主山田氏の重臣でのち長宗我部氏に仕えた北村惣左衛門(居屋敷あり)の給地三町一反余、五百蔵藤次郎給約二町三反、宮口四良左衛門給約六反余、舟谷源左衛門給約四反などがある。北村氏はのち山内氏に仕えて百人衆郷士となり、江戸時代には片地村上七ヵ村の庄屋を務めたことがある。元禄地払帳では宮ノ口村に含まれるが、当村のみの本田高は五九・九八六石(元禄郷帳)で、宮ノ口村と同石。

北村
きたむら

[現在地名]津幡町山北やまきた

津幡川上流笠野かさの川の右岸山麓に位置。南は笠野盆地に面し、南西は鳥越とりごえ村。正保郷帳では高一六一石余、田方六町・畑方四町七反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一六八石、免五ツ五歩、小物成は山役三四匁・野役三匁・綿役一匁(三箇国高物成帳)。寛文年間の百姓数九(高免付給人帳)。天明元年(一七八一)と享和二年(一八〇二)に斜面の水田は洪水ごとに肥土が押流され、山崩れが多く困窮として引免された(「河北郡引免根帳」林文書)。文化八年(一八一一)の産物は蚕繭一三貫目ほど・楮皮二〇束ほど・串柿二五束ほど・割木三〇〇貫目ほど(「村々諸産物書上帳」新田文書)。安政二年(一八五五)の家数二一・人数一二九(「高免家数人数等書上」亀田文書)

北村
きたむら

[現在地名]会津高田町旭三寄あさひみよせ

高田村から大内おおうち(現下郷町)へ通じる街道に面し、南西は箕作みつくり村、南はまえ川を境にして池端いけのはた村。本村の北二町余に小名馬墓うまのはか、西七町余に端村兎沢うさぎざわがある。近世は会津領から寛永二〇年(一六四三)以降南山御蔵入領で、東尾岐組に属した。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に北村沢とあり、高三〇九石余。文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳では高三五八石余。

北村
きたむら

[現在地名]堺市日置荘北ひきしようきた

西にし村の東、原寺はらでら村の北に位置し、村名もこれによる。かつては中世日置庄の中心原寺村の北への出郷地で、早くから開けており、条里制の地割にしたがって村落が営まれてきている。河内国丹南郡に属する。文禄三年(一五九四)の丹南郡西村郷検地帳(太田家文書)に北村からの出作百姓が数筆記載されている。慶長一七年(一六一二)水割符帳(田中篤家文書)によると狭山さやま(現南河内郡狭山町)大樋筋から取水、水懸高三五五石。

北村
きたむら

[現在地名]美山町大字北

知井ちい一二ヵ村の一。由良川上流の右岸、小浜街道沿いに開けた山間集落。川の上流はなか村、南へ下ると左岸にみなみ村、北および西はすぐ山が迫る。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属し、鎌倉時代以降は知井庄の地。

慶長七年(一六〇二)幕府領、寛文四年(一六六四)より篠山藩領となるが、山林は享和二年(一八〇二)より禁裏御料となり京都代官の支配を受けた。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳によると、高一〇〇石、旧高旧領取調帳では一四八・九五三石。

北村
きたむら

[現在地名]堺市陶器北とうききた三原台みはらだい三丁・高倉台たかくらだい四丁・晴美台はるみだい三―四丁・槙塚台まきづかだい四丁

石津いしづ川の支流陶器川の上流部に位置する。東山ひがしやま新田の南東に続く泉北丘陵上の村。大鳥郡に属し、陶器庄一〇ヵ村の一。慶長一〇年(一六〇五)和泉国絵図に「北村」とみえる。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳によると高六七三石。その後変化なく続くが元文年中改和泉国四郡郷村高帳で六一九石余と減少している。これは同村枝郷の見野山みのやま村を分村したためである。以後大幅な変化はない。

北村
きたむら

[現在地名]和歌山市北

名草なくさ郡に属し、東は永穂なんご村、西は西田井にしたい村。村域は南北にやや長く、平坦地である。村域の東を永穂からの一流を合せたろつ用水の一流(現鴨居川)が南西に流れる。慶長検地高目録によれば高三七六石余。天保郷帳では三九三石余。

北村
きたむら

[現在地名]篠山市北

野中のなか村の北に位置し、大川(篠山川)支流の小枕こまくら川が合流する。正保二年(一六四五)頃、野中村の北部を割いて一村としたという(多紀郡地誌)。承応二年(一六五三)の検地帳(藤本家文書)が残る。寛延二年(一七四九)の野中村免状(園田家文書)に北村分として高二一五石余とあり、六ツ五厘の定免で取米一二八石余、ほかに山手米二石二斗余・山役一〇石八斗。「丹波志」に南ノ庄のうち北村とみえ、高二一五石余で、野中村枝郷と記される。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では岩崎組のうちで、家数二四・人数一〇三。

北村
きたむら

[現在地名]大分市北

村の東、大野川河口右岸の村で、集落は海岸線に沿って走る浜堤列上にある。「肥後国誌」によれば「元北村・今北村・小森村・開村」などの小村がある。江戸時代を通じて肥後熊本藩領で関手永のうち。寛永一一年(一六三四)の同藩豊後国郷帳に村名がみえ高一一九石余。正保郷帳では田高七三石余・畑高四六石余、大佐井おおざい郷に所属。宝暦一三年(一七六三)の反別一三町一反余、小百姓八一・組頭二、横目・庄屋各一。寛政一一年(一七九九)の家数一一九・人数五三七。

北村
きたむら

[現在地名]畑野町畉田ふた

三宮さんぐう村と宮浦みやうら村との間にあり、三宮村・馬場ばんば村と複雑に接し境界は不明瞭。村の成立は馬場村と同じで、産土神は馬場村の熊野社で、当村の曹洞宗浄林じようりん寺は馬場村の檀那寺でもあった。元禄七年(一六九四)の検地帳(畉田区有)では、田畑屋敷合計一九町四反余で、名請人は二一人。「佐州巡村記」では戸口は九軒・二七人。

北村
きたむら

[現在地名]千丁町大牟田おおむた

上土あげつち村の西方にあり、外牟田ほかむた村の北に接する。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳に田方六九八石一斗余・畠方一五石余とある。元和七年(一六二一)徳淵とくぶち(現八代市)にあった加藤右馬允正方の知行地が当村のうち六七一石に替地となっている(熊本藩年表稿)。種山手永に属し、「国誌」は本・大井・淵藪・蒲原・丸田・中などの小村を記す。

北村
きたむら

[現在地名]新津市北

阿賀野川と早出はいで川の合流点付近の氾濫原にあり、南は新郷屋しんごや村、北は六郷ろくごう村。寛永一〇年(一六三三)喜左衛門の開発と伝え、もとは喜左衛門きざえもん新田村と称した(万治二年「蒲原郡下条組喜左衛門新田村本田新田田畑検地帳」新関村郷土史)。貞享元年(一六八四)の村上藩領分郷村高辻帳には北村とあり、高一九石六斗余。宝暦一一年(一七六一)の御巡見様御案内帳(新関村郷土史)によると高四四石六斗余、反別五町五反余、家数三(高持二・無高一)、人数一七(男一〇・女七)

北村
きたむら

[現在地名]小笠原村母島ははじま西台にしだい東台ひがしだい衣館ころもだて庚申塚こうしんづか長浜ながはま石門せきもん

おき村の北、母島の北端にある。明治二四年(一八九一)の世話掛設置概則制定時に、それまでの北湊・わき浜をまとめ、一人の世話掛を置いた。集落は北港の南に延びる谷間に発達。昭和一五年(一九四〇)町村制が適用された。

北村
きたむら

[現在地名]英田町北

みなみ村の北に位置し、東は横川よこがわ村。中世は河会かわえ(庄)に属し、建長五年(一二五三)一一月二九日の渋谷明重・僧連署譲状案(入来院文書)に「河会郷十丁北」とみえ、渋谷重経に譲られている。建治三年(一二七七)九月一三日には「きたのむら」が重経から嫡子竹鶴に譲られ(「渋谷重経譲状案」同文書)、弘安元年(一二七八)六月三日に幕府から安堵されている(「将軍家政所下文案」同文書)

北村
きたむら

[現在地名]社町喜田きた一―二丁目・喜田

加古川の支流千鳥ちどり川北岸に位置し、南は梶原かじわら村。喜田村・喜多村とも記される(天保郷帳など)。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳には喜田村と記され、赤穂藩領、田方二〇〇石余・畠方一一石余。寛文一一年(一六七一)村内の一部が旗本浅野長賢(赤穂藩主浅野長直の養子)領となる(「寛政重修諸家譜」、元禄一四年「浅野赤穂分家済美録」浅野家文書)。天保郷帳では高二二三石余。

北村
きたむら

[現在地名]金津町北

北野きたの村の東、加越山麓の清滝きよたき川右岸に位置する。「建武元年記」(大乗院文書)中に「坪江油免名主藤五郎申云、下郷油免ハ九名半、(中略)北村一斗五升□□云々」とあるが、この北村が当村をさすとも思われるが詳細は不明。

慶長六年(一六〇一)結城秀康から多賀谷三経に宛てた知行宛行状(多賀谷文書)に丸岡領として当村(高二五五・七〇八石)も記される。貞享三年(一六八六)以降幕府領、のち福井藩預領となる。宝暦期(一七五一―六四)に書かれた田畑高反別仕分帳(児島家文書)に、「慶長年中太閤様水帳焼失仕候、正徳三巳年百姓地平均内検地反別ニ御座候」とあり、内訳は、上田一町三反余・分米三二石八斗余・石盛二石四斗、中田二町八反余・分米六六石六斗余・石盛二石三斗、上畑六反余・分米一一石二斗・石盛一石八斗、中畑六反余・分米一一石一斗余・石盛一石七斗、下畑二町余・分米三二石八斗余・石盛一石六斗で、石盛はきわめて高い。

北村
きたむら

[現在地名]新宮町北村

揖保川の右岸、觜崎はしさき村の北に位置する。揖東いつとう郡に属し、越部北こしべきた村ともいわれた(元禄郷帳など)。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は下野しもの村と同じ。元和三年(一六一七)の揖東郡郷帳(林田郷土史)では高二八三石余。正保郷帳では田方一八四石余・畑方五二石余。旧高旧領取調帳では高二九一石余。

北村
きたむら

[現在地名]坂内村広瀬ひろせ

羽根はね村・西にし村の北方、大谷おおたに川筋に立地する。正保郷帳では大垣藩領で、田二石余・畑一二四石余・桑木高一石余のほか、小物成として綿一二〇匁・漆二〇〇匁・ひそ木三三九本・入木三四〇束半が課せられていた。元禄郷帳でも大垣藩領。明治五年(一八七二)の村明細帳によれば田二六石余・畑一一二石余、家数九四・人数四七〇、牛四七。

北村
きたむら

[現在地名]金沢市北町

若宮わかみや村の西に位置し、宮腰みやこし往来が横断する。北接する若宮出わかみやで村を挟み北方に飛地があった。正保郷帳では高三七四石余、田方二三町四反余・畑方一町二反であった。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高三八五石・免五ツ五歩で、鳥役五匁の小物成があったが、鷹場に指定され免除されていた(三箇国高物成帳)

北村
きたむら

[現在地名]小原村北

田代たしろ川の上流にあり、大ヶ蔵連おおがぞれ山の南西に位置する。寛永郷帳では岡崎藩領、明治元年(一八六八)西尾藩領である。慶安三年(一六五〇)の三州賀茂郡小原之内岡崎領北村検地帳(鈴木早苗氏蔵)には屋敷一四筆の面積と持主が書上げられている。明治九年の副業統計(小原村誌)では木挽二戸、水車業四戸、馬喰三戸、紙漉二戸がある。

北村
きたむら

[現在地名]奈良市北村町

須川すがわ村西方にある。寛永郷帳に喜多村とみえ、近世文書に喜田村ともある。慶長郷帳の村高三二二・〇三石。御番衆領から元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領。のち同藩の二割半無地高増政策によって村高は四〇二・五四一石となる。延宝七年(一六七九)幕府領に編入された。天和元年(一六八一)古河藩(堀田正俊)領となるが、貞享二年(一六八五)再び幕府領となる。

北村
きたむら

[現在地名]砥用町三和みつわ 北村

東は栗崎くりざき村、西は長野ながの村・常海原じようかいばる村、北は古閑こが村に接する。山々が点在し起伏に富む地形である。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると高五五石五斗余、うち田方一五石三斗余・畠方四〇石一斗余の田の少ない小村。

北村
きたむら

[現在地名]小国町北

小国町村の北に位置する。北部をよこ川支流田沢たざわ川が南西流し、西は西にし村。近世初期の邑鑑では村名を欠くが、蒲生氏高目録帳には小国を冠して北・西とみえ、両所を合せて高付されるところから、邑鑑でも高・戸数などは西村に含まれたと思われる。正保郷帳では田高一三四石余・畑高一七石余。

北村
きたむら

[現在地名]豊里町沼崎ぬまざき

屋賀代やがしろ村の南にあり、東谷田ひがしやた川に沿う。村域には縄文土器が出土した沼崎北遺跡がある。近世初期には沼崎村のうちで、江戸時代を通じて旗本領。幕末には再び沼崎村となる。

北村
きたむら

[現在地名]加西市北町

別所べつしよ村の南西、播但中央山地の南東部に位置する。慶長国絵図に「北野村」とみえる。初め姫路藩領、正保(一六四四―四八)頃は幕府領(正保郷帳)、寛保元年(一七四一)再び姫路藩領となり幕末に至る(同三年「村明細帳」広原町有文書など)

北村
きたむら

[現在地名]津山市津山口つやまぐち

吉井川を隔てて津山城下町の南西に隣接する。元禄一一年(一六九八)以後も津山藩領。承応元年(一六五二)「山上り」により集落が移転(美作略史)。正保郷帳では田方一一二石余・畑方二六石余、元禄一〇年の美作国郡村高辻帳では二三九石余、うち改出高五九石余・開高四一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報