築地座(読み)つきじざ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「築地座」の意味・わかりやすい解説

築地座
つきじざ

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世界大百科事典(旧版)内の築地座の言及

【久保田万太郎】より

…慶大在学中の1911年《三田文学》に小説《朝顔》を発表し,《太陽》に戯曲《プロローグ》を懸賞応募して当選,17年に《末枯(うらがれ)》で文壇に認められ,26年には勤めていた母校を辞して放送局に入る。この間に戯曲《雨空》(1920),《短夜》(1925),《大寺学校》を執筆,劇作家として活躍したが,32年に友田恭助・田村秋子夫妻が結成した築地座の演出を引き受け,その解散後37年に岸田国士,岩田豊雄と文学座を創立,他方で新派各劇団のために創作・脚色・演出で活動しつつ,句集《道芝》(1927)をはじめ,俳誌《春灯》(1946年1月~)を大戦後主宰するなど俳句作家としても知られた。代表作品に小説では《春泥》(1928),《花冷え》(1938),《市井人》(1949),戯曲では《釣堀にて》(1935),《萩すゝき》(1942),《あきくさばなし》(1946),脚色の仕事では荷風の《夢の女》,一葉の《十三夜》,潤一郎の《蘆刈》などがある。…

【劇団】より

…しかし,29年(昭和4),前年来の中心的メンバーであった小山内薫の急死を契機に築地小劇場は分裂,解散した。以後の戦前新劇は,〈新築地劇団〉〈新協劇団〉〈築地座〉の3劇団を中核に展開したが,40年夏に,左翼的傾向を持つ新築地劇団,新協劇団は強制解散を命じられ,築地座の発展である〈文学座〉(1937創立)のみが戦時中の活動を許され,42年には佐々木隆らにより〈文化座〉が結成された。 45年の敗戦後は,前記2劇団のほか,戦時中に弾圧されていた新劇人たちが一斉に戦前新劇を復興させる旺盛な劇団活動を展開した。…

【新劇】より

… 築地小劇場が小山内の急死によって分裂,解散(1929)した後,以降,右傾化する国家権力により後述の新協,新築地両劇団が強制的に解散させられる(1940)までの期間は,それまでの数多くの欧米近代劇上演によって刺激され,また培われてきた日本近代戯曲の,いわば真の開花期であり,また心理主義的なフランス近代戯曲の翻訳上演期でもあった。 いまだ翻訳劇優先であった築地小劇場を脱退した友田恭助・田村秋子夫妻は,1932年2月〈築地座〉を結成した。その上演55演目中,16演目がフランス近代心理劇を主体にする西欧近代戯曲で,39演目が日本の創作戯曲だった。…

【友田恭助】より

…25年女優田村秋子と結婚。築地小劇場解散後は夫人とともに32年〈築地座〉を結成し,日本の近代創作劇上演運動を展開,小山祐士(ゆうし)ら多くの劇作家に創作の機会を与えた。左翼的イデオロギーに偏せず,近代日本の心理的・写実的演技樹立の実践家であった。…

※「築地座」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」