友田恭助(読み)トモダキョウスケ

デジタル大辞泉 「友田恭助」の意味・読み・例文・類語

ともだ‐きょうすけ【友田恭助】

[1899~1937]新劇俳優。東京の生まれ。本名、伴田五郎築地小劇場の創立に参加。のち築地座を結成、創作劇の上演に努めた。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「友田恭助」の意味・読み・例文・類語

ともだ‐きょうすけ【友田恭助】

  1. 新劇俳優。本名伴田五郎。東京出身。新劇協会初舞台。築地小劇場の設立に参加し、昭和七年(一九三二)妻、田村秋子とともに築地座を結成。文学座創立直後、上海で戦死。明治三二~昭和一二年(一八九九‐一九三七

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「友田恭助」の解説

友田 恭助
トモダ キョウスケ


職業
俳優

本名
伴田 五郎

生年月日
明治32年 10月30日

出生地
東京市 日本橋区蛎殻町(東京都 中央区)

学歴
早稲田大学文科〔大正9年〕中退

経歴
錦城中学から早稲田大学文科に進み、同大在学中の大正6年、米国帰りの畑中蓼坡に師事。8年新劇協会の第1回公演「叔父ワーニャ」で初舞台を踏む。9年舞台「青い鳥」の大阪公演に参加するため大学を中退。同年末、初代水谷八重子、夏川静江らと師走座を旗揚げ、10年わかもの座改称。13年小山内薫土方与志、和田精、汐見洋、浅利鶴雄の同人6人で築地小劇場を創立、第1回公演はラインハルト・ゲーリング「海戦」。以後、「狼」「夜の宿」「愛欲」「大寺学校」などに出演。14年田村秋子と結婚。昭和4年小山内の死により築地小劇場が分裂、5年劇団新東京を創立。7年夫妻で築地座を旗揚げした。12年9月岸田国士久保田万太郎岩田豊雄(獅子文六)らと文学座を創立したが、直前に召集令状を受けていたことから、文学座発会式がそのまま戦地への歓送会となった。10月上海郊外で戦死した。

没年月日
昭和12年 10月6日 (1937年)

家族
妻=田村 秋子(女優)

伝記
永くもがなの酒びたりふたりの夫からの贈りもの 中村 伸郎 著長岡 輝子 著(発行元 早川書房草思社 ’91’88発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「友田恭助」の意味・わかりやすい解説

友田恭助 (ともだきょうすけ)
生没年:1899-1937(明治32-昭和12)

新劇俳優。本名伴田五郎。中学生時代から芝居好きで,早大学生時代に〈新劇協会〉の畑中蓼坡(りようは)に師事して同劇団の公演《ワーニャ伯父さん》に出演,水谷八重子らとの〈わかもの座〉(1920結成)を経て,1924年築地小劇場創立同人となった。25年女優田村秋子と結婚。築地小劇場解散後は夫人とともに32年〈築地座〉を結成し,日本の近代創作劇上演運動を展開,小山祐士(ゆうし)ら多くの劇作家に創作の機会を与えた。左翼的イデオロギーに偏せず,近代日本の心理的・写実的演技樹立の実践家であった。37年発足の文学座はもともと友田夫妻を俳優に専念させるための新劇団だったが,友田は同年9月に出征し,10月に上海戦線で戦死した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

20世紀日本人名事典 「友田恭助」の解説

友田 恭助
トモダ キョウスケ

大正・昭和期の俳優



生年
明治32(1899)年10月30日

没年
昭和12(1937)年10月6日

出生地
東京・日本橋区浜町

本名
伴田 五郎

学歴〔年〕
早大独文科中退

経歴
新劇協会に入り、大正8年「叔父ワーニャ」で初舞台。9年水谷八重子らと「わかもの座」を結成、次いで第二芸術座に参加。13年築地小劇場の創立に参加、小山内薫、土方与志らの指導を受け、「海戦」「愛欲」「大寺学校」などに出演。14年田村秋子と結婚。昭和4年小山内の死で築地小劇場分裂、劇団新東京を創立。7年田村秋子と築地座を結成。12年岸田國士、久保田万太郎らと文学座を創立、その直前、応召され上海事変で戦死した。「どん底」が当たり役。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「友田恭助」の意味・わかりやすい解説

友田恭助
ともだきょうすけ
(1899―1937)

新劇俳優。本名伴田五郎(ともだごろう)。東京生まれ。少年時代に土方与志(ひじかたよし)を知り2人で素人(しろうと)劇団を結成、これは早稲田(わせだ)大学独文科進学後も続いた。1919年(大正8)畑中蓼坡(りょうは)の新劇協会で初舞台。翌年大学を中退して水谷八重子らとわかもの座を創立、第二次芸術座にも関係した。1924年築地(つきじ)小劇場に創立同人として加わり、1928年(昭和3)の久保田万太郎作『大寺(おおでら)学校』で新境地を開いた。築地小劇場解散後は夫人の女優田村秋子と劇団新東京をつくり、1932年に夫妻で築地座を結成、岸田国士(くにお)、久保田万太郎らの後援を得て、市民感覚にあふれた創作劇を上演し、一時代を築いたが、1936年解散。翌年に文学座の創立に加わったが、前後して赤羽工兵隊に入隊、10月上海(シャンハイ)郊外で戦没した。

[大笹吉雄]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「友田恭助」の意味・わかりやすい解説

友田恭助【ともだきょうすけ】

新劇俳優。本名伴田五郎。東京生れ。早大在学中に新劇協会第1回公演で初舞台をふみ,水谷八重子らとわかもの座を結成,1924年築地小劇場の創立に参加。1932年夫人田村秋子と築地座を創立。性格表現に長じ的確な名演技で知られたが,上海で戦死。
→関連項目文学座

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「友田恭助」の意味・わかりやすい解説

友田恭助
ともだきょうすけ

[生]1899.10.30. 東京
[没]1937.10.6. 上海
俳優。本名伴田五郎。幼時から芝居好きで中学生の頃,茅ヶ崎の伯母の家に南湖座という小屋を建ててもらい,土方与志らと芝居を演じた。 1917年早稲田大学独文科に入学したが中退。新劇協会,師走会 (のち,わかもの座) ,第2次芸術座などを経て,25年築地小劇場に参加,『愛欲』その他ですぐれた演技を示した。 32年2月妻田村秋子とともに自費で築地座を創立。プロレタリア演劇の波に抗して,いわゆる劇作派の作家たちを多く世に送り出した。築地座を母体として文学座を創立するはずのところ,召集令を受けて戦死した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「友田恭助」の解説

友田恭助 ともだ-きょうすけ

1899-1937 大正-昭和時代前期の舞台俳優。
明治32年10月30日生まれ。大正13年築地小劇場創設に参加,「愛欲」「大寺学校」などで人気を博す。昭和7年妻で女優の田村秋子と築地座を結成し,創作劇を上演した。12年岸田国士(くにお)らと文学座を創立する直前に召集をうけ,同年10月6日上海郊外で戦死。39歳。東京出身。早大中退。本名は伴田五郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「友田恭助」の解説

友田 恭助 (ともだ きょうすけ)

生年月日:1899年10月30日
大正時代;昭和時代の新劇俳優
1937年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の友田恭助の言及

【新劇】より

… 築地小劇場が小山内の急死によって分裂,解散(1929)した後,以降,右傾化する国家権力により後述の新協,新築地両劇団が強制的に解散させられる(1940)までの期間は,それまでの数多くの欧米近代劇上演によって刺激され,また培われてきた日本近代戯曲の,いわば真の開花期であり,また心理主義的なフランス近代戯曲の翻訳上演期でもあった。 いまだ翻訳劇優先であった築地小劇場を脱退した友田恭助・田村秋子夫妻は,1932年2月〈築地座〉を結成した。その上演55演目中,16演目がフランス近代心理劇を主体にする西欧近代戯曲で,39演目が日本の創作戯曲だった。…

※「友田恭助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

世界の電気自動車市場

米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...

世界の電気自動車市場の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android