天文の乱(読み)てんぶんのらん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「天文の乱」の意味・わかりやすい解説

天文の乱
てんぶんのらん

河越城の戦い

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の天文の乱の言及

【一向一揆】より

…この事件に反発した京都の日蓮宗門徒は蜂起し(法華一揆)山科本願寺を焼き払い,証如は石山に逃れる。この事態の中で細川晴元は本願寺と手を切り石山御坊を攻めた(天文の乱)。証如は各地の支援を得て石山防衛をするが戦利なく,35年主戦派の下間頼盛を追放して晴元と和睦する。…

【伊達稙宗】より

…1517年(永正14)将軍足利義稙の一字を受けて稙宗と称し,左京大夫に任ぜられた。32年(天文1)伊達郡梁川より同郡桑折西山城に移り,子息晴宗と争った天文の乱(1542‐48)後,伊具郡丸森に隠退し,同地で死去した。この間,1522年(大永2)ころ陸奥国守護となり,35年棟役日記,38年段銭古帳を作成し,また36年家法《塵芥集》を制定するなど,伊達氏の戦国大名化に画期的な役割を果たした。…

【伊達晴宗】より

…母は蘆名盛高の娘。弟実元の越後上杉氏入嗣問題を契機に父と争い(伊達氏天文の乱),乱後居城を米沢に移した。1553年(天文22)家臣に改めて知行判物(ちぎようはんもつ)を一斉に交付し,権力の集中強化を図った。…

【陸奥国】より

…南奥では,戦乱は伊達氏を中心に展開する。伊達氏は16世紀前半に尚宗(ひさむね)対稙宗(たねむね),稙宗対晴宗の当主父子の対立を軸とする深刻な内争を経験し(後者を天文の乱という),その中でみずからを戦国大名に鍛え上げていった。(1)財政基盤の確立を目ざす1535年(天文4)の棟役日記および38年の段銭古帳の作成,(2)36年の家法《塵芥集(じんかいしゆう)》の制定,(3)53年の家中に対する所領安堵状のいっせい給付(晴宗公采地下賜録)などが,その達成である。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」