日本大百科全書(ニッポニカ) 「河越城の戦い」の意味・わかりやすい解説
河越城の戦い
かわごえじょうのたたかい
河越夜軍(よいくさ)とも天文(てんぶん)の乱などともいう。1546年(天文15)4月、北条氏康(うじやす)が同綱成(つなしげ)らの守る武蔵(むさし)河越城救援に向かい、その20日の夜、山内(やまのうち)上杉憲政(のりまさ)、扇谷(おうぎがやつ)上杉朝定(ともさだ)、古河公方(こがくぼう)足利晴氏(あしかがはるうじ)らの連合軍を撃破した戦い。この前年、氏康は、今川義元(よしもと)と、かねてから係争の地であった駿河(するが)の富士川以東の地域をめぐり激突したが、このとき、憲政は義元と結び、挟撃のため朝定らと河越城を攻囲した。氏康が不利になると、晴氏も憲政に加勢し、10月末、河越城攻めに加わった。まもなく氏康と義元、憲政らとの間にいったん講和が成立したが、翌年4月20日にふたたび戦い、その結果、朝定や難波田善銀(なんばたぜんぎん)らは戦死、憲政は上野(こうずけ)の平井に逃れ、晴氏は古河に帰った。朝定らの敗死により扇谷上杉氏は滅び、また、大石定久(さだひさ)や藤田邦房(くにふさ)らが服属して、北条氏は北武蔵における覇権を握ることになった。
[佐脇栄智]