… 春秋戦国時代には大国による併合がすすみ,淮河流域は楚に併合され,その範囲はしだいに南方へ拡大した。戦国末期,秦の侵入を受けた楚は都を寿春に移し郢(えい)と称したが,現在の寿県付近には楚の遺跡が多く,丘家花園で発見された鄂君敬節(がくくんけいせつ)は,古代楚国の状況を知るうえで貴重な金石史料である。これに対し長江流域は呉の影響圏にあり,江・淮の間で両国が衝突を繰り返した。…
…春秋の末に呉の侵入に備えて鄀(じやく)(湖北省宜城県北東)に遷都した一時期を除き戦国までつづく。しかし戦国も末になると秦に攻められて前278年には陳(河南省淮陽県)に,前253年には鉅陽(きよよう)(安徽省阜陽県北西),前241年には寿春(安徽省寿県)に都を移したが,前223年ついに秦に滅ぼされた。鄀も寿春も郢とよばれており,楚はどこでも都を郢とよんだようである。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」