日本歴史地名大系 「遥拝阿蘇神社」の解説
遥拝阿蘇神社
ようはいあそじんじや
寛元二年(一二四四)五月一五日の人吉庄起請田以下中分注進状(相良家文書)に「神田弐町参反内 遥拝一丁」の神田がみえ、正元二年(一二六〇)五月日の人吉庄南方経徳名常楽名田数得田米等実検注進状(相良家文書)にも「遥拝宮八段元丁五分一ニ二段相分定」とあり、人吉庄内の有力神社の一つであった。元禄一二年(一六九九)の球磨郡神社記によれば、大同年間(八〇六―八一〇)の草創で、相良氏二代頼親が再営、同一四代長祗の時また再興したと伝え、「旧時ハ村山ノ下福川之辺ニ有社、跡到今ニ洪水ノ時神体流テ八代郡高田ニ至ル、其処今ニ遥拝瀬ト云、木像十二体内一体ハ高田ニ留テ里人拝祠之十一体ハ旧地ニ還テ長祗公之御願ニ依テ這所ニ遷宮、寛文十年庚戌藤原頼喬公修造」とする。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報