神田(読み)カンダ

デジタル大辞泉 「神田」の意味・読み・例文・類語

かんだ【神田】[姓氏・芸名]

姓氏の一。
講談師の芸名の一。
[補説]「神田」姓の人物
神田孝平かんだたかひら
神田乃武かんだないぶ
神田伯山かんだはくざん
神田伯竜かんだはくりゅう

かんだ【神田】[地名]

東京都千代田区の北東部を占める地域。もと東京市35区の一で、神田駿河台神田神保町・一ッ橋・岩本町外神田の辺り。大学・書店・出版社が多い。神田神社ニコライ堂がある。

しん‐でん【神田】

古代、収穫を神社の祭事・造営などの諸経費に充てるために設定された田。公田に準ずる不輸租田であり、売買は禁じられた。御刀代みとしろ

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精選版 日本国語大辞典 「神田」の意味・読み・例文・類語

しん‐でん【神田】

  1. 〘 名詞 〙 ( 古くは「じんでん」とも ) 神社に付属して、その収穫を神社の祭典や造営、または神職の給料などの諸費にあてるための田地。不輸租田とした。みとしろ。おおみた。かみた。
    1. [初出の実例]「凡田。六年一班。〈神田寺田。不此限〉」(出典:令義解(718)田)

かんだ【神田】

  1. 東京都千代田区北東部の地名。上古、伊勢神宮の神田(かみだ)があったところからの呼称。東京都三五区の一つであったが、昭和二二年(一九四七)麹町区と合併して千代田区となる。二三区のほぼ中央にあり、神田生まれは江戸っ子の代表とされた。大学や出版社、書店などが多い。神田神社(神田明神)がある。

かみ‐た【神田】

  1. 〘 名詞 〙 神社に所属している田。この田からの収穫で神事や造営の費用、神職の給料などをまかなう。神の田。しんでん
    1. [初出の実例]「神主牢籠の事ありて、論じけるものありとて、神田を刈とらんとしければ」(出典:古今著聞集(1254)一)

かんだ【神田】

  1. 姓氏の一つ。

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日本歴史地名大系 「神田」の解説

神田
かんだ

現千代田区の北東部をよぶ広域地名。中世には江戸時代神田橋かんだばし御門周辺、江戸時代には現在の神田地区の東半分にあった町地を汎称。明治以降は駿河台小川おがわ町・外神田も含んだ広域地名となった。北条氏所領役帳によると、太田新六郎知行地のうち六貫五八四文が江戸「神田内新堀方渋江分」に充てられている。神田明神あるいは伊勢神宮の神田が置かれたのが地名の起源と伝えられるが、確証はない。新堀は神田または芝崎しばざき村の中に含まれる地名。

〔江戸時代前期の様子〕

江戸時代の神田の範囲は、西は雉子橋きじばし御門からまないた橋を経て小石川御門に至る線、南は雉子橋御門から外堀に沿って常盤橋ときわばし御門北側の竜閑りゆうかん橋に至る線、東は同橋から北東に竜閑川を通り馬喰ばくろ(現中央区)を結ぶ線、北は小石川橋から東に神田川をたどり、駿河台の昌平しようへい橋から北に向かい外神田を含む一帯であった。一帯はひら川の氾濫原で、本郷に続く丘陵地を除いて低湿地であったといわれる。元和六年(一六二〇)の牛込(飯田橋)から東への水路開削、丘陵地の掘割開削によって平川が大川(隅田川)へ流末が向かうように付替えられたため、当地域の開発が可能となったといわれる。併せて神田台(のちの駿河台)の本郷からの分割、外神田地域の成立となった。江戸時代前期は、筋違すじかい御門から浅草橋あさくさばし御門に至る神田川南岸から日本橋との境までの一帯(現在の須田町・岩本町・東神田など)には多数の寺社があり、寺町を形成していた。その西側、日本橋からの中山道、神田橋からの御成道を中心とする一帯(現在の鍛冶町・内神田辺り)には、幕府御用を勤める職人たちが拝領した国役町を中心に町屋があった。そして御成道の西側に広がる駿河台と小川町(現在の神田錦町・神田神保町・西神田・三崎町など)の一帯には武家屋敷が立並んでいた。


神田
かんだ

[現在地名]厳原町豆酘

木槲もくこく山を水源とし、保床ほとこ山麓を流れ、豆酘つつ浦に注ぐ神田川の流域を神田原かんだばるという。神田が置かれていたことに由来し、現在も神様の田とよばれる斎田があり、故例による儀礼に従って神の米が耕作されている。神の米は赤米で、形状がいくぶん細長く、粘着性が乏しいなどインド型の品種のようにみえるが、日本型と同定されているもので、籾殻が茶褐色で、玄米にも赤身があるものの、精米すれば白くなる。天道法師が最初の種籾をもたらしたと伝え、天道てんどうの祭事ではすべてこの赤米が用いられる。

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改訂新版 世界大百科事典 「神田」の意味・わかりやすい解説

神田 (かんだ)

東京都千代田区北東部の地名。北は湯島,東は日本橋,南は大手町に接する。1878年東京府15区,1932年東京市35区の一つとなり,47年麴町区と合併して現在の千代田区となった。武蔵野(山手)台地の一部である本郷台(駿河台を含む)の南端部を,西・南・東側の低地が取り囲むような地形をなす。この本郷台南部には人工的につくられた外堀(神田川)が横切り,その南側の台地部分は駿河台と呼ばれる。神田は江戸時代の職人町,町人町から発展し,神田明神の神田祭などで威勢のいい下町的な所として知られている。この傾向はやや薄れはしたものの秋葉原の駅周辺の家庭電気器具商店街,神田駅周辺の服地,家具,薬品など各種の商店街に引きつがれている。明治以後大名・武家屋敷の相当部分が学校用地に転用された。明治初年一ッ橋付近に東京大学,学習院(宮内省立)などの官立大学や一橋大学(私立として発足)が設立され,御茶ノ水の駅付近の外堀北側につくられた官立の師範学校,女子師範学校とともに,駿河台から一ッ橋にかけて文教地区が形成された。明治30年代以降,この地区へ次々と私学(明治,日本,中央,専修,東京歯科,東京電機,共立女子の各大学)がつくられたが,関東大震災後には官立大学は移転し,私立大学の多い地区となった。学校の集中とともに,駿河台の西に接する神保(じんぼう)町一帯には古書店がふえた。現在も100余軒の古書店のほか,新刊書店,出版社,書籍取次店が集まっている。駿河台,神保町周辺には予備校も多く,1960年ころからは銀行,証券などの業務街としての機能も高まった。
執筆者:

近世以前は神田山(駿河台)から平将門首塚(千代田区大手町)付近までの地名であったが,江戸城の拡張により地名が北東に移動し,初期に成立した市街地の呼称となる。大橋のちの常磐(ときわ)橋よりこれものちの浅草橋に至る中世の奥州往還に沿って成立した本町通りの北側一帯が神田である。本町通りの大半は伊勢店(いせだな)で代表される上方商人の商業地区で,対する神田は徳川氏縁故の大工,鍛冶,紺屋などの職人頭に割り付けられ,職人町となる。1603年(慶長8)に幕府開設による市街地再編成が実施され,メインストリートの本町通りは新規に計画された通町筋(とおりちようすじ)(現在の中央通り)にその位置を譲った。その結果神田は町人町の最北端部になった。同じ時期に運河の神田川も掘られ,以後川を境に内神田・外神田の称が生じた。この当時の内神田の職人町は通町筋方向に乗物町(駕籠),鍛冶町,鍋町(鋳物),新石町と須田町,連雀町の流通業の町が並び,平行して革屋町,竪大工町と多町の青物市場が並んだ。さらにその西側に横大工町,新銀町,雉子町(木地),佐柄木(さえき)町(刀の研師の町)があった。この町並みと直交する形で紺屋町,白壁町(左官),塗師町(漆細工),関口町,蠟燭町などもあった。一方,平川(日本橋川)左岸の神田橋門外の江戸最初の魚河岸があった鎌倉河岸に面して鎌倉町,竜閑町,大和町などこれも流通業の町があり,また御成道(おなりみち)に並行して三河町があった。外神田では筋違橋(すじかいばし)門外の中山道と御成道の追分(おいわけ)に旅籠町ができ,神田川北岸は佐久間河岸を中心に,おもに関東地廻りの材木,薪炭,米などの荷受地が形成された。神田川掘削の揚げ土は南岸の土手造りに利用され,そこに村松町,徳右衛門町,柳原1~6丁目ができた。その南側一帯は神田北寺町と呼ばれ城郭内にあった寺院20寺が移された。さらに職人町に接して武家地も見られた。明暦大火(1657)後の復興計画で寺院は本所と浅草に再移転され,跡地は徐々に町人町化した。内神田の職人町や市場への原材料や製品の搬入出は神田川,鎌倉河岸の両方で行われた。神田全体は大江戸の都市需要をみたす総合産業地区として発達した。さらに1690年(元禄3)には鎌倉河岸東端から,本町通りと神田の境に町人自費による運河の神田八丁堀(竜閑川)が掘られ,浜町,蠣殻(かきがら)町を経て江戸湊と結ぶ水路もできた。これは神田をめぐる商・職の活動ぶりを示す象徴的なものでもあった。

 〈芝で生まれて神田で育っ〉たのが江戸っ子といわれた。日本橋の商業地区は出店が多く,使用人も上方で雇用され派遣される者が多かった。江戸とその近在出身者が都市生活をするには,神田の職人町や市場で修業するほかにみちはなかった。神田の土地柄が江戸っ子を代表するものとされたのは,こうした商・職独自の事情を反映したものである。これは江戸から明治までほとんど変わらずに推移した。
執筆者:


神田 (しんでん)

神社の神饌や供祭料などの祭祀等の諸経費にあてる田地。《日本書紀》崇神7年11月条に〈天社,国社および神地,神戸を定む〉とみえるが,神田は大化前代から存在し,御戸代(みとしろ)と呼ばれた。律令制下では一般の田地と異なって,収授の対象から除かれている。また,神田の売買は禁止されていた。《令集解》にみえる明法家の古記説(大宝令を注釈した説)によれば神田を輸租田とするが,田租は神社の収入になり,実質的には不輸租田と同じである。〈民部例〉や《延喜式》などでは不輸租田の中に入れられる。田地が荒廃化した際の借佃は,公田として取り扱われた。神田の耕作は,伊勢神宮の場合は《延喜式》に雇傭による郡司の営種方式と,班田農民による賃租方式の2方式がみられる。一般の神田にも雇傭と賃租の方法が存在したのであろう。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「神田」の意味・わかりやすい解説

神田(東京都)
かんだ

東京都千代田区の北東部を占める地区。1878年(明治11)~1947年(昭和22)は神田区として独立していた。かつて伊勢(いせ)神宮へ初穂を送る神田(みとしろ)があったこと、また真神田臣(まかみたのおみ)が氏神を祀(まつ)って神田明神と称したことに地名が由来するという。神田山また駿河台(するがだい)とよぶ山手(やまのて)台地から下町の沖積地に広がる。JR中央線、山手線、京浜東北線、総武線のほか、東京地下鉄日比谷(ひびや)線・銀座線・丸ノ内線・半蔵門線・千代田線、都営地下鉄三田(みた)線・新宿線が通じ、また首都高速道路都心環状線も通って交通至便である。

 神田は日本橋地区とともに江戸時代は商工業の活発な地区で、鍛冶(かじ)、紺屋(こんや)、材木、旅籠(はたご)など商工業の同業集団の街並みがあった。また人工河川の神田川には鎌倉河岸(がし)、佐久間(さくま)河岸などの河港があって江戸町民の生活物資が集まり、多町(たちょう)には青物市場が設けられていた。この市場は1928年(昭和3)秋葉原駅北側に設けられた公営の東京中央卸売市場神田市場へと引き継がれたが、市場は1989年(平成1)東京卸売市場大田市場(大田区)に移転、統合された。神田の台地は神田山といわれたが、江戸初期この山を崩して銀座などの埋立てに使われた。徳川家康の死後、駿府(すんぷ)(静岡)の旗本の屋敷地となって駿河台とよばれるようになった。明治以後ここに日本大学、明治大学、中央大学(1978年八王子市に移転)などの各私立大学が集まり、駿河台は学生の街となっている。また、ビザンティン式建築のニコライ堂もある。駿河台近くの神保町(じんぼうちょう)は書店街で知られる。なお、秋葉原駅周辺は第二次世界大戦後は電機製品販売の街として名高く、現在はIT関連の企業も進出している。

 神田川北方の外(そと)神田にある神田神社(神田明神)は、江戸時代から市民に親しまれ、5月中旬の神田祭(大祭は隔年)は天下(てんか)祭ともいわれ、「江戸っ子」を誇る町民によって盛大に行われる。万世(まんせい)橋の南側には、交通全般にわたる資料を収集・保存する交通博物館があったが、2006年(平成18)5月、老朽化のため閉館した。

[沢田 清]



神田(しんでん)
しんでん

(1)奈良・平安時代に神社の諸経費にあてるために設定された不輸租田。「みとしろ」(御刀代、御戸代)ともいう。特定の田地を某社の神田として付近の農民に賃租させる場合と、神戸(かんべ)の口分田(くぶんでん)をもってあてる場合とがあった。

(2)中世荘園制(しょうえんせい)下において、領主から年貢の納入を免除された神社所有の田をいう。

[虎尾俊哉]

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百科事典マイペディア 「神田」の意味・わかりやすい解説

神田【かんだ】

東京都千代田区の旧神田区地域。神田川北岸の外神田などと,南側の駿河台(するがだい),一ッ橋神保(じんぼう)町,内神田,東神田などに分かれ,江戸初期鎌倉河岸から発達,現在はJR,地下鉄の駅がある御茶ノ水水道橋秋葉原,内神田東部(神田駅)の各地区が発展している。
→関連項目千代田[区]文化3年の大火文政の大火

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「神田」の解説

神田
しんでん

田令に班田収授の対象外とされた神社の永代所有地。「古事記」「日本書紀」に御戸代(みとしろ)とみえ,成立は大化以前にさかのぼる。不輸租田で租はそのまま神社に入る。「皇太神宮儀式帳」には雇用労働力による経営がみえるが,他に郡司による営種や賃租,神賤による直営,神戸の口分田を転用する場合などがあった。神田からの収入は貯蓄されて神税とよばれ,祭祀や神社の修造,神官の俸禄などにあてられた。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「神田」の意味・わかりやすい解説

神田
しんでん

神社の諸費用にあてる田地。令制では不輸租田であり,農民に対し賃貸する場合と,神戸 (かんべ) の農民が耕作する場合との2様があったが,売買は許されなかった。中世以降にも神社所有田として存続した。 (→神税 )

神田
かんだ

東京都千代田区北部の地区。旧区名。江戸時代は武家屋敷が多かったが,明治以後,その跡地に多くの学校が建設された。いまも私立大学が多い。地域北東端の秋葉原は電気器具問屋街,駿河台は文教地区で,神保町付近は書店街を形成し,小川町にはスポーツ用品店が多く立並ぶ。江戸二大祭で名高い神田神社がある。

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旺文社日本史事典 三訂版 「神田」の解説

神田
しんでん

律令制下の神社所有の土地
その収穫は神社の経費にあてられた。不輸租の特権が与えられ,売買は禁じられた。平安時代に入ると寄進などによって増加し,神領・御厨 (みくりや) と呼ばれる荘園となった。

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世界大百科事典(旧版)内の神田の言及

【大宮】より

…富士山の南西麓,富士山本宮浅間(せんげん)神社の門前町。大宮神田の市に始まり,門前町として集落を形成した。甲斐と駿河を結ぶ甲州街道の宿場町,富士登山の表口の町として繁栄。…

【江戸】より

…徳川氏は江戸を関八州の中心にしようと,低湿地の埋立て,船入堀の造成,橋の架設などを行った。神田湯島台などに屋敷地が造成されて三河などから家臣団を受け入れ,また日本橋辺の町地には畿内や東海地方からの商人が移住するようになった。しかしまだ江戸の町づくりは本格化していなかった。…

【古本屋】より

…江戸時代の出版,新古書店は,京橋,日本橋方面に多く,江戸時代末期から明治時代初期には芝方面にも多くなった。その時期神田は主として旗本の屋敷であったが,幕末・明治初年に東京大学,東京外国語大学,一橋大学,明治大学,専修大学,中央大学,法政大学,日本大学などの前身が開校するとともに学者・学生が集まり,書物の需要の増加によって神田書店街が出現した。明治10年代に淡路町,小川町付近に始まり,駿河台下から神保町,九段下,水道橋通りへと延びて今日に至っている。…

【官省符荘】より

…政府が,太政官符や,それをうけた民部省符を下して(これらを総称して官省符という),荘園の永代領有と,その田地からほんらい国に納めるべき租税を免除される不輸の特権とを公認した荘園。特定の神社・寺院に所有が認められた神田寺田は,律令国家の初期にはまだ正式な不輸租田でなかったが,8世紀中期,天平宝字年間のはじめごろ,神田・寺田は公田として取り扱われるようになり,正式に不輸租田となった。そこで政府は,神田・寺田を官省符で不輸租荘園として公認する手続をとったのが,官省符荘のはじまりである。…

※「神田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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