林村(読み)はやしむら

日本歴史地名大系 「林村」の解説

林村
はやしむら

[現在地名]竜王町林

駕輿丁かよちよう村の東、川守かわもり村の北にある。北西流する日野川を境に東方は新巻あらまき村・浄土寺じようどじ(現近江八幡市)。字地に美濃田みのだがある。これは「続日本紀」大宝二年(七〇二)三月二三日条にみえる「美濃国多伎郡民」七〇〇余名が蒲生郡に移されたとの記事に関係があるとする説もある。正長元年(一四二八)一二月一三日の荒牧諸散在年貢引付帳(左右神社文書)に村名がみえ、当村の衛門三郎が得楽名四分の一にあたる一町三反分(分米三石二斗五升)などの年貢納入を請負っている。永享二年(一四三〇)には当村の井田入道了昌が安吉あき郷内の田地一反を当村右衛門太郎に直銭二貫五〇〇文で(同年一一月二七日「田地売券」同文書)、文明一二年(一四八〇)には当地の道誓が「村田殿」に綾戸あやどの田地一反の作職をそれぞれ売渡している(同年一〇月二〇日「田地売券」同文書)。享禄四年(一五三一)苗村なむら神社護摩堂造立の大工は「林村之ちう三郎」であった。村田殿は当地の在地領主で六角氏被官の村田氏のこと。永禄一一年(一五六八)織田信長の近江入国後は信長に従い、信長方代官の指揮下で検地指出の徴収や年貢催促、夫役徴発などの任に当たった(竜王町史)。同氏居館は信長重臣の村井貞勝が菅屋某・岩井某に宛てた元亀(一五七〇―七三)から天正(一五七三―九二)初年頃と思われる六月八日付の書状(左右神社文書)に「不思議之屋敷相構候」と記され、城郭のような構えであった。


林村
はやしむら

[現在地名]高松市林町・上林町かみはやしちよう

六条ろくじよう村の西に位置し、高松平野の中央、ふる川北西側の平地に立地。坊城ぼうじよう遺跡から縄文晩期の木製農具や土器、弥生土器・石器、自然木(流木)などが出土している。古代の山田郡拝師はやし(和名抄)の遺称地。当地には条里の遺構が残る。奈良時代末頃には拝師廃寺が建立されていた。寛元三年(一二四五)四月一七日、近江比叡山東塔恵光院公性が譲った坊・領のうち、摂津天王寺念仏三昧院の寺領中に「林庄預所性寛阿闇梨」がみえる。同庄は尊性法親王(後高倉院皇子=妙法院門跡)が所有していたが、天王寺別当に任ぜられた時同寺念仏三昧院に寄進されて、京都妙法みようほう院門跡を本所に、念仏三昧院を領家としていた(「公性譲状」妙法院文書)。文和二年(一三五三)一〇月妙法院当知行目録案(同文書)に、天王寺念仏三昧院領として林庄が載る。室町時代、上林城に林三河守実氏、中林城に岡野光資、高岡たかおか城に高岡正継が拠った。いずれも三谷みたに村の王佐山おうさやま城主三谷氏の麾下であったという(全讃史)


林村
はやしむら

[現在地名]明石市林一―三丁目・林崎町はやしざきちよう一―三丁目・宮の上みやのうえ南貴崎町みなみきさきちよう・貴崎一―四丁目・立石たていし一―二丁目・川崎町かわさきちよう

明石川河口の西側に位置する海辺沿いの村。東は船上ふなげ村。西浦辺組に所属。「播磨国風土記賀古かこ鴨波あわわ里の項に「赤石の郡の林の潮」とみえる。みなとは湊の意で明石川河口西岸の漁港辺りをいう。文安二年(一四四五)一月一九日榑八〇石を積載した林の掃部を船頭とする由良ゆら(現洲本市)船籍の船が兵庫北関に入津している。二月三日英賀あが(現姫路市)の米四〇石、東山ひがしやま(現同上)の塩二〇石、山城石清水いわしみず八幡領船曳ふなびき(現三日月町)の年貢米をそれぞれ積載した林船籍の船が同関を通過。八月から一一月にかけては榑八〇石を積んだ由良船籍の船が林の船頭により六度も運ばれており、そのうち四度は前述の掃部がかかわっている(兵庫北関入船納帳)

天正一三年(一五八五)閏八月以降の高山右近(重友)の明石入部の際、城内の宝蔵ほうぞう寺の僧は仏像を捧持して西方の江井嶋えいがしままで移動したという(宝蔵寺記・明石市史)


林村
ならばやしむら

[現在地名]城島町楢津ならつ

城島村の南、筑後川下流左岸にある。西は高津たかつ村。応安五年(一三七二)七月以前に肥前から筑後に転じた幕府方の今川頼泰(仲秋)の軍勢は本郷ほんごう(現瀬高町)・楢林に陣し、南朝方の肥後菊池武安勢と合戦した(同年一二月日「深堀時広軍忠状」深堀文書/南北朝遺文(九州編)五など)。天正六年(一五七八)三月二日書写の筑後領主附(筑後将士軍談)には当地を名字の地とする楢林左京がみえ、三潴郡江上えがみに居住し四町を領したとする。永禄年間(一五五八―七〇)に出された四月五日の豊饒鎮富書状案(田尻家文書/佐賀県史料集成七)によると、楢林左京亮は大友氏から給地として与えられた山門やまと郡萱分(比定地未詳)を同郡鷹尾たかお(現大和町)の田尻鑑種に押領されていた。同地は天文五年(一五三六)楢林木工助が大友義鑑から預け置かれていたが(同年八月二三日「大友義鑑知行預ケ状写」同上など)、田尻氏にも同所が与えられたので(七月二六日「大友氏加判衆連署書状」同上など)、両氏間で争っていた。


林村
はやしむら

[現在地名]長野原町林

吾妻川北岸、高間たかま山・王城おうじよう(一一二三・二メートル)の南麓にあり、中心集落は段丘上平地に位置する。西は長野原村、南は吾妻川を挟んで横壁よこかべ村・川原湯かわらゆ村。段丘上の山際を信州への道が通る。「加沢記」によると、永禄六年(一五六三)の長野原合戦で岩櫃勢の羽尾・浦野・植栗五〇〇余騎が王城山から長野原城を攻めている。同年には武田信玄の命を受け岩櫃いわびつ(現吾妻町)総攻撃となるが、真田幸隆は「林の郷諏訪の森」に本陣をすえ督戦するとある。研究の余地ある文書だが、同九年三月晦日の武田信玄感状写(「加沢記」所収)によると嶽山合戦での湯本善太夫の活躍をたたえ、「羽尾領内林村」において二〇貫文を加増している。天正一八年(一五九〇)の草津湯本氏所領高帳(湯本文書)には林村二二貫七〇〇文がみえる。


林村
はやしむら

[現在地名]芸濃町林

楠原くすわら村の南東に位置する。村域の北端をなかノ川が東流し、伊勢別街道がほぼ南北に貫いている。建久三年(一一九二)八月の神領注文(神宮雑書)に、「林御厨 ○給主髪長有覚等 件御厨、去仁安年中建立、度々国司奉免 庁宣已了、亦被下 宣旨也、 供祭物 上分米二石、別進起請米四石」とあって、仁安年中(一一六六―六九)に御厨として成立していることが知られる。「神鳳鈔」には「内宮三石林御厨口入三石」と記されている。しかし同時に、荘園にもなっていたようで、林西はやしにし庄・林東庄の二つの荘園が史料に現れている。林西庄については「民経記」寛喜三年(一二三一)一〇月九日条に「一、伊勢駅家事、北白河院申給林西庄事、可奏聞」とあり、後堀河天皇の生母北白河院藤原陳子の所領であったとみられる。


林村
はやしむら

[現在地名]所沢市林・はら狭山さやまおか東狭山ひがしさやまおか

じま村の北にあり、西は大森おおもり(現入間市)、北は藤沢ふじさわ(現同上)入間いるま山口やまぐち領に属した(風土記稿)。田園簿では高二石余で皆畑。幕府領で幕末まで続く。承応三年(一六五四)・寛文八年(一六六八)に検地があり(風土記稿)、同九年の新田検地帳(所沢市史編さん室蔵)では四三町余、延宝二年(一六七四)の新田新畑検地帳(同室蔵)では二三町余、貞享元年(一六八四)の武蔵野新田子改帳(同室蔵)では一町余が打出されている。


林村
はやしむら

[現在地名]玉湯町林村

湯町ゆまち村の西に位置し、北は宍道湖に面する。西は東来海ひがしぎまち(現宍道町)本郷ほんごう柳井やない根尾ねお別所べつしよの四地区に分れる。「出雲国風土記」「和名抄」に記載される意宇おう拝志はやし郷の遺称地で、風土記によると初めは林と記したが、神亀三年(七二六)に拝志と改めたという。中世も古代郷名を継承する国衙領拝志郷に含まれた。慶長七年(一六〇二)の玉作之内別所村御検地水帳によると、田高九三石余・反別一〇町六反余、畑高四石余・反別九反余、屋敷数六。別所村が玉造たまつくり村から当村域に含まれたのは一七世紀中頃とされる(玉湯町史)


林村
はやしむら

[現在地名]茂木町林

三坂みさか村の東、さか川の右岸に位置し、村内中央を北流する鮎田あゆた川が北部で逆川に注ぐ。中世には茂木保を構成する一郷で、文和二年(一三五三)六月一〇日の明阿茂木知貞譲状写(茂木文書)によれば、「林除檜山村」が嫡子知世に、「林郷内檜山」が庶子知久に譲られている。その後知久の息朝音が嫡統を継いだため林郷と檜山ひやま村は朝音に一括して伝領された。朝音は至徳元年(一三八四)一二月一三日の譲状写(同文書)で林郷を嫡子基知に、檜山村を庶子幸楠丸(満知)に分け譲った。幸楠丸は兄基知の養子となって嫡家を継いだために林郷と檜山村をともに領有した。


林村
はやしむら

[現在地名]厚木市林・王子おうじ一―三丁目・みどりおか一―四丁目・吾妻あづま

小鮎こあゆ川が北から東へ流れ、西は飯山いいやま村、南は戸室とむろ村に接する。尼寺原あまでらはら台地周縁北側の崖下に集落が発達し、荻野おぎの道が南から北に通る。小田原衆所領役帳に内藤兵部少輔「百貫五百文 中郡林郷」とある。近世は、宝永三年(一七〇六)までは幕府直轄領・旗本領・藩領と替わるが、以後幕府・旗本領の四給となり、享保一三年(一七二八)幕府領は下野烏山藩領となる。嘉永七年(一八五四)四月平塚宿加助郷勤高控(厚木市史史料集一〇)

<資料は省略されています>

とある。


林村
はやしむら

[現在地名]大月市七保町林ななほまちはやし

奥山おくやま村の北、葛野かずの川右岸から同川支流小俣おまた川流域に展開する。北は奈良子ならご村。家々が山腹にあり、隣家へ行くにも山坂を越え林の間を往来しなくてはならなかったことが地名の由来であるとか、かつて二木という武士が当地で割腹、供養のため二木を一つに合せて地名にしたなどの伝承がある(都留市史)。「甲斐国志」は枝郷として用沢ようざわ棚本たなもとをあげるが、両所は奈良子村域にある。文禄―慶長期(一五九二―一六一五)のものと推定される四郡高〆控によると高二五石余。寛文九年(一六六九)の郡内領高辻帳では高二七石余、田はなくすべて畑。


林村
はやしむら

[現在地名]久御山町大字林・さかえ一―四丁目

巨椋おぐら池の南方に位置し、東は広野ひろの(現宇治市)、南は大久保おおくぼ(現宇治市)、西は佐山さやま、北は佐古さこの各村にあたる。集落の西をふる川が北流する。

当地は「和名抄」に記す久世郡拝志はやし郷に比定される。中世は石清水いわしみず八幡宮(現八幡市)領で永享六年(一四三四)の足利義教御教書(石清水文書)に次のようにみえる。

<資料は省略されています>

江戸時代、当村は東西二村に分れていたらしく、「山城名跡巡行志」は「林村有東西二村」と記し、明治一〇年代の「京都府地誌」はその事情を次のように記す。


林村
はやしむら

[現在地名]田辺市中芳養なかはや

さかい村の北に位置し、村の西南を芳養川が北西から西南に流れ、同河川流域では最も平地が広い。中世は芳養庄に属し、鎌倉時代には荘鎮守として石清水いわしみず八幡宮の分霊が当地に勧請されるなど、荘の中心地として推移したとみられる。村名は正中二年(一三二五)の芳養庄八幡宮祝職補任状(「続風土記」所収楠本家文書)に「林村」とみえるのが早い。

慶長六年(一六〇一)の浅野左衛門佐殿知行持高写(「万代記」所収)によれば村高三六二石余。


林村
はやしむら

[現在地名]人吉市上林かみばやし町・中林なかばやし町・下林しもばやし町・温泉おんせん

万江まえ川下流左岸に位置し、村の南西端は球磨川との合流点となる。北は原田はらだ村、西の万江川対岸は中神なかがみ村、南の球磨川対岸は西裏にしうら村、東はおお村と薩摩瀬さつまぜ村に接する。慶長国絵図に「林野村」として三四六石八斗余とある。寛永一一年(一六三四)郷村高辻帳では本田高四二一石八斗余、新田畠高四六一石一斗余である。同一八年の検地帳では分米高八〇三石九斗余で、田畑構成は上田一九町七反二畝余・中田三二町二畝余・下田一三町五反五畝余、上畑二町七反七畝余・中畑五町五反七畝余・下畑五町三反六畝余・野畑三畝余・山畑なし、屋敷三町三反九畝余であり、上田と中田が六割以上を占める。


林村
はやしむら

[現在地名]小松市林町

木場きば潟南方の平地にあり、北を日用ひよう川が北西流する。西は下粟津しもあわづ村、北は能美のみ津波倉つばくら村。時衆過去帳(清浄光寺蔵)によれば、遊行一四代太空(在位一四一二―一七)に結縁した僧として「加州ハヤシ」の名阿、同一五代尊恵(在位一四一七―二九)に結縁した尼僧に「ハヤシ」の了一房がみえる。「天文日記」天文七年(一五三八)一一月一七日条によれば、粟津保在所の林兵衛が別心を構えたとしてその買得地を没収されており、その土地を能美郡の山内組(手取川河谷の山内庄を基盤とする一揆組織)の組衆の一人鮎滝甚五郎が押領したところ、そのなかに粟津八幡社(現津波倉神社)の社領地が含まれていたため、社家衆が本願寺にその返還を求めている。


林村
はやしむら

[現在地名]宮川村林

宮川右岸にあり、北対岸は西忍にししのび村、西対岸は森安もりやす村、南は野首のくび村。安政角川地震の痕跡が宮川中学校の南部にみられ、断層角窪地かくあちとなって西に傾いている。集落はおもにこれ以東の段丘上にある。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳によれば、小島こじま郷のうちに「すへさね村大江村忍村」とあり、このしのび村は当村を中心とする岸奥きしおく・野首・牧戸まきど四ヵ村の旧称東忍村である。同一八年の郷帳では高二四石余。元禄検地帳(宮川村文書)では高四二石余、田四反余・畑一二町一反余、漆一反六畝余。


林村
はやしむら

[現在地名]松本市里山辺 林

すすき川左岸の林大はやしおお城の西南にある村で、西は筑摩つかま神田かんだの平地に接し、東に鉢伏はちぶせ山の支脈高遠たかとお山の山麓広沢寺こうたくじ山を負う。広沢寺山を南に越えると和泉村・埴原はいばら村があり、林大城と一連の要害城で県史跡埴原城がある。

中世には林郷・林・林村と三様に書かれている。「信府統記」によると、「御朱印高二百六拾八石七斗六升」とあり、享保九年(一七二四)当時の石高は三五五石五斗六升八合三勺。


林村
はやしむら

[現在地名]近江八幡市桜宮町さくらみやちよう音羽町おとわちよう出町でまち八幡町はちまんちよう

なか村の東にあり、東から南にかけては鷹飼たかかい村、北は八幡町。地名は当地の八幡山が古くは林山とよばれたことによるという(元禄一一年「検地帳」大林共有文書)しちつぼはちつぼなど古代条里の遺称とされる小字名も多く残る。八幡城下形成以前にはのちの朝鮮人街道が貫通する交通の要所で、島郷しまのごう市は中村から当地にかけてあったと思われる。天正一七年(一五八九)九月一五日、西川八郎衛門に「林村内弐百石」などが与えられている(「豊臣秀吉朱印状」西川文書)。当村のうち高一千石余などが、二代将軍徳川秀忠夫人崇源院(徳子、家光生母)の化粧料地となっていたが(中島文書)、寛永三年(一六二六)崇源院は没し、同一一年陸奥仙台藩領となり、同藩領で幕末に至る。


林村
はやしむら

[現在地名]横須賀市林一―五丁目・御幸浜みゆきはま

武山たけやま丘陵の西に位置し、小田和こたわ湾に接する。東は須軽谷すがるや村、南は長井ながい村、北は大田和おおたわ村、北東にたけ村がある。海辺に沿って三崎みさき道が通じる。弘安七年(一二八四)一二月一三日の関東御教書(県史二)によれば「相模国林郷大多和村」が頼朝の法華堂領であった。文安五年(一四四八)一二月三〇日の室町幕府奉行人連署奉書(県史三)によれば「法華堂領相模国三浦郡武・津久井・林・須加利谷四ケ村」が、法華堂別当であった京都醍醐寺地蔵院の支配とされた。


林村
はやしむら

[現在地名]小牧市林

池之内いけのうち村の東にある。元亨二年(一三二二)六月二七日の林・阿賀良両村名主浄円等連署請文(円覚寺文書)によれば、当村は春部かすがべ郡司範俊の開発によるもので、阿賀良あがら村ともども別相伝の地として宴源・浄円ら名主が累代相承してきた。尾張の所領経営に積極的にのり出していた鎌倉円覚えんがく寺は、当村や阿賀良村をも支配下に置かんとし、年貢納入を命じた。浄円ら名主は「及異論者、定可有其煩之間、且存穏便之儀、且以帰敬之志」と譲歩し、田数済物目録(名寄帳)を円覚寺に進め、年貢は名主らの沙汰として毎年納入することにした。


林村
はやしむら

[現在地名]倉敷市林

木見きみ村の北西、蟻峰ぎほう山の西に位置する。一説では康永三年(一三四四)二月二六日の文殿廻文(師守記紙背)以下にみえる児林こばやし庄の遺称地とされる。永禄一一年(一五六八)一〇月二六日、熊野十二所権現(現熊野神社)に出した毛利輝元・元就連署禁制(黄薇古簡集)に神領三ヵ村の一つに「林庄」とある。

清田きよた八幡宮の元和元年(一六一五)の上葺再興棟札に村名がみえる。


林村
はやしむら

[現在地名]藤井寺市林一―六丁目・惣社そうじや一丁目

大井おおい村の南、市野山いちのやま古墳(允恭天皇陵に治定)の西に位置する。大井との境を東西に古代の大津おおつ道が通っており、村の南辺近くを長尾街道が通る。志紀郡拝志はやし(和名抄)の遺称地と考えられており、当地を本貫とした林氏が奉斎したとみられる伴林氏ともばやし神社がある。文禄検地高は不明だが、慶長四年(一五九九)八月七日の豊臣氏大老連署知行宛行状案(毛利家文書)によれば三〇〇石が伊木七右衛門入道、一二二石が郷司孫左衛門に与えられている。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では四二一石余。元文二年(一七三七)の河内国高帳では四二三石余。前記村高控帳では幕府領、以後同領として続き元禄一四年(一七〇一)渡辺基綱(当時和泉大庭寺藩のち伯太藩)の領地に入り、幕末に至る。


林村
はやしむら

[現在地名]木造町林

田圃を隔てて東に生田いくた村、北西に薦槌こもつち村、北東は片田岡かたたおか村、すぐ南に大畑おおはた村。

寛文六年(一六六六)の開村という(西津軽郡史)。天和三年(一六八三)の広須御新田所図に村名がある。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、大畑村の支村とあり、田畑屋敷合せて三八町六反六畝一八歩、村高二六八・九〇六石とある。うち田方は二八町八反一三歩で二二四・〇五七石、上田から下々田まで設定され、下田が一八町四反七畝二四歩、一二九・三四六石とある。


林村
はやしむら

[現在地名]多古町林

多古たこ村の南西、多古橋たこばし川の左岸に位置する。江戸時代末期に描かれたと思われる村絵図(林区有)には広大な野山に田畑が櫛の歯状に開拓されている。慶長一五年(一六一〇)佐倉藩領になったとされ、寛文四年(一六六四)の松平乗久領知目録(寛文朱印留)に村名がみえる。同八年の鷹場五郷組合帳では高三〇〇石、同藩領で、島組に属した。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高三一二石余、旗本中根・有馬・松下領。この旗本三氏領のまま幕末に至る。寛政九年(一七九七)の松下領分の年貢皆済目録(林区有文書)では高九八石余、年貢は米三四石余・胡麻六升・永三貫五四四文。


林村
はやしむら

[現在地名]美山町大字盛郷もりさと

つるおか一九ヵ村の一。由良川の支流棚野たなの川流域の若狭(高浜)街道に沿った山間集落。川の上流(北東)大及おおきゆう村、下流(南)上吉田かみよしだ村・田土たど村。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属する地。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村ののむら庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となったというが(大正一二年「京都府北桑田郡誌」)、確証はない。

慶長七年(一六〇二)幕府領、元和五年(一六一九)より園部藩領となる。


林村
はやしむら

[現在地名]竹野町林

下塚しもづか村の南、竹野川中流域に位置する。江戸時代の領主の変遷は宇日うひ村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高三一五石余。元禄九年(一六九六)の但州村々法度五人組帳(冨森家文書)でも同高。元文四年(一七三九)の家数人数其外書上帳(細田家文書)によると家数五八・人数三四三、寺一・社二、牛二二。延享二年(一七四五)の人家牛船数書上帳(同文書)では家数五七・人数三五二、牛二〇。出石封内明細帳でも高に変化はないが、一二〇石余は大荒とある。


林村
はやしむら

[現在地名]山城町大字上狛かみこま 東林ひがしはやし・西林・向林むかいはやし

上狛村の北にあって、東から西に延びる丘陵端に位置する。北は椿井つばい村で、村内を奈良街道が通る。狛村八村の一。「大乗院寺社雑事記」文明一八年(一四八六)には高林氏の名がみえ、当地辺りに居住したと思われる。

林村の入会山は村の北東の三上さんじよう山南部域にあった(江戸末期「上狛村絵図」小林家旧蔵)。また天明七年(一七八七)の林村明細帳(中津川家蔵)によれば木津きづ川筋堤西殿にしどのに悪水樋があり、これは林村・上狛村・椿井村・北河原きたがわら村の入会であった。


林村
はやしむら

[現在地名]栗東町林

六地蔵ろくじぞう村の東、野洲やす川南岸平地に立地。東海道に沿う街村。康正二年(一四五六)五月二二日の足利義政袖判御教書案(建内文書)に「近江国林村散在」とみえ、大館教氏に与えられている。寛永石高帳では高九一五石余、膳所藩領。以後幕末まで同藩領。慶安高辻帳では田五八四石余・畑六二石余・永荒二六八石余。享保一〇年(一七二五)石部いしべ宿(現甲賀郡石部町)に助郷高九一五石で出役(三大寺文書)


林村
はやしむら

[現在地名]豊丘村林

現豊丘村の中部。

元亀二年(一五七一)三月、武田信玄が秋山信友に命じて大島城(現松川町元大島)の普請に当たらせた時、林郷も郡内諸郷とともに人足を徴収された。その時の武田信玄朱印状(工藤文書)に「林」とあり、これが確かな文献上の初出である。

江戸時代になると幕府領となり、朝日受永・宮崎氏・市岡氏らの幕府代官の支配を受けた後、寛文一二年(一六七二)から飯島代官所の管轄下に入った。村高は天正一九年(一五九一)には三五六石余(「信州伊奈青表紙之縄帳」佐々木忠綱氏蔵)、元禄一五年(一七〇二)には五三〇石(信濃国郷帳)に急増している。

檜・椹が豊富なため榑木成村となり、榑木(屋根板用材)を年貢として納めた。


林村
はやしむら

[現在地名]御所市大字林

金剛山地東麓の緩傾斜地、三宅みやけ川の扇状地に立地。東は鳥井戸とりいど村。

中世、小野おの郷の中心村落。小野郷は舟路ふなじ五百家いうか・鳥井戸・林・僧堂そうどう朝妻あさづま六村の総称で、慶長郷帳に「尾野村」、寛永郷帳に「小野」とあり、林村は元禄郷帳に「古ハ小野之郷村と申候」とみえる。尾野おの村は村高一二一五・一八七石の大村で、御所藩(桑山元晴)に属した。


林村
はやしむら

[現在地名]瀬戸田町林

生口いくち島の北側中央部に位置し、南に山を負い、東は茗荷みようが村、西は生口中野いくちなかの村、北は海に臨んで佐木さぎ(現三原市)に対峙する。「芸藩通志」に「広三十五町、袤三十三町」とある。

元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では生口島二千四六六石余のうちに含まれる。寛文一〇年(一六七〇)当村沖に塩浜一軒が瀬戸田町市郎右衛門・同源四郎により、同一二年には二軒が同じく源四郎および久左衛門によって開発された。その後、当村では塩田開発が進み、延宝三年(一六七五)から同五年にかけて五軒が三原西みはらにし町三九郎・瀬戸田町伝九郎らによって開発されている。


林村
くしばやしむら

[現在地名]敦賀市櫛林・ひばりひばりおか

和久野わくの村の西南、敦賀平野のほぼ中央に位置する。元亀四年(一五七三)三月二三日付西福寺寺領目録(西福寺文書)に「粟生野郷之内櫛林」とみえ、慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では粟生野郷一千九一一石余に含まれた。正保郷帳では一村として高付され、田方一二九石余・畠方一石余。寛文八年(一六六八)小浜藩領より加知山藩領に替わる。「滋賀県物産誌」は口碑として、寛永一〇年(一六三三)の大洪水で田畠の多くに砂礫が入り荒廃し、他国に逃亡する村民も出、人戸二六軒も四戸となる状態になったのを、野坂のざか村の柴田権右衛門が領主の命をうけ当村の雁子氏と協力して復旧したと記す。


林村
はやしむら

[現在地名]彦根市金沢町かなざわちよう

中下なかしも村の東、宇曾うそ川左岸に位置。天正一九年(一五九一)五月の愛知郡蔵入目録(芦浦観音寺文書)に村名がみえ、六九三石余が豊臣秀吉の直轄領として代官観音寺詮舜の管理下に置かれた。慶長高辻帳では高七一一石余、うち小物成四石。江戸時代を通じて彦根藩領。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば人数四〇二、うち寺社方五。「木間攫」によれば枝郷に長柄村があり、産土神は豊満とよみつ大明神(現愛知郡愛知川町)


林村
はやしむら

[現在地名]多気町井の内林いのうちばやし

佐伯中さえきなか村の西、初瀬はせ(伊勢)本街道沿いにある。天暦七年(九五三)の近長谷寺資財帳(同寺蔵)に記される「相可郷十六条二井内里」のうちで、古代条里制の施行された所である。「延喜式」神名帳の多気郡五二座の一つ林神社(現津田神社)に由来する地名であろう。林村・井ノ内村は天保郷帳では各々一村をなしているが、のち井内林いのうちばやし村となり、一村とみなされたようである。


林村
はやしむら

[現在地名]大野村林

鹿島台地の中央部にあり、北浦の沖積低地が深く湾入する。東は小山こやま村。弘安大田文に「同宿内林十九丁一段半」とあり、中村郷の内に入っている。鎌倉初期に常陸大掾氏一族の鹿島三郎成幹の六子頼幹は当地に城を構え、林氏を称し(常陸大掾系図)、以来、室町時代を通じて当地を支配した。天正一九年(一五九一)東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「三百卅六石仁斗五升 はやし」とある。


林村
はやしむら

[現在地名]能登川町林

猪子いのこ村の北西にあり、村域は東西に細長く、東を朝鮮人街道が通る。西は山路やまじ村に接するが、同村が文禄期(一五九二―九六)に徳永寿昌に差出した村規約および名字調(山路共有文書)に名字として「林」と記され、当時は山路村に含まれていたらしい。「輿地志略」には林寺はやしでら村とあるが未詳。寛永石高帳に村名がみえ、高三五三石余。領主の変遷は猪子村と同様で、享保九年大和郡山領郷鑑によれば反別二二町五反余(慶長七年検地)、家数二九のうち本百姓二八・水呑一、人数一二三、馬三。


林村
はやしむら

[現在地名]砺波市林

中神なかがみ村の北西にある。「和名抄」記載の礪波となみ拝師はやし郷の遺称地とする説がある。元和五年(一六一九)の家高新帳に林村とみえ、若林わかばやしの内で役家数三。正保郷帳では高一四一石余、田方八町九反余・畑方五反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二一三石・免三ツ七歩、小物成は野役二六匁・鮎川役一匁。貞享四年(一六八七)一九石が検地引高となる(三箇国高物成帳)


林村
はやしむら

[現在地名]日野町すぎ

はら村の北西、佐久良さくら川の左岸に位置する。中世には杉杣すぎぞま郷として推移。元和三年(一六一七)彦根藩領となる。寛永石高帳では高五二二石余。元禄八年大洞弁天寄進帳では人数一八九。竜王りゆうおう山で雨乞を行った九ヵ村の一で(享保一二年「庄村明細帳」杣共有文書)、同山西側斜面の原村地先三峰みつみね山を入会地として数度にわたり原村と当村など六ヵ村の間で山論となった(蒲生郡志)


林村
ならばやしむら

[現在地名]豊後高田市さかい 楢林

犬田いんだ村の南、田笛たぶえ川中流域に位置する。西は宇佐郡横田よこた(現宇佐市)。永正一一年(一五一四)の玉水山徳勝寺由緒(泉福寺本山末山由緒略)に「来縄郷楢林村」とみえる。江戸時代の領主の変遷は上来縄かみくなわ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳によると高二三三石余、家数二三(うち百姓八・山守一、うらや・庭や・牛屋一四)・人数六三(うち百姓八・名子五)、牛一〇・馬三。


林村
はやしむら

[現在地名]日田市小野おの 鈴連町すずれまち

河内かわち村の北方に位置し、間に小竹こだけ村の飛地の下小竹を挟み、小野川が南流する。正保郷帳に村名がみえ、田高一二七石余・畑高五三石余で、夜開やけ郷に属した。寛文四年(一六六四)の小川代官支配高帳(長野家文書)では林原とあり、免四ツ五分六厘。


林村
はやしむら

[現在地名]袖ケ浦市林

川原井かわはらい村の南に位置し、小櫃おびつ川支流のまつ川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二一四石。寛永三年(一六二六)田畑屋敷高辻帳では田一九町二反余、畑一〇町四反余・分米四七石余。正保国絵図では高二四二石余であるが、元禄郷帳では高二一四石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高二三〇石余で家数四三、幕府領と旗本金田・後藤の二家領。


林村
はやしむら

[現在地名]下館市林

北は折本おりもと村・柴山しばやま村、南は谷部やべ村。文明一〇年(一四七八)水谷勝氏が下館に築城後、同氏の支配地となる。江戸初期に下館藩領となり、元和九年(一六二三)の水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)に、村高一四二・四五七石とある。


林村
はやしむら

[現在地名]結城市林

鹿窪かなくぼ村の南に位置。集落は台地上にある。慶長六年(一六〇一)より天領、やがて久世広之(のち下総関宿藩主)領となる(寛文朱印留)。元禄一三年(一七〇〇)と同一六年、都合二四一・八七五石が水野勝長に宛行われ(水野勝邦文書)、明治まで結城藩(水野氏)領。


林村
はやしむら

[現在地名]十津川村大字林

十津川西岸、高津たこうつ村の対岸に立地。十津川郷のうち。寛永郷帳に初めて村名がみえる。村高七八・一八八石、幕府領。元禄郷帳には村高三九・二二石となっている。安政四年(一八五七)の産物取調帳(十津川宝蔵文書)に杉角尺〆九〇本、檜角尺〆二〇本、椴栂松尺〆五〇本、煙草一五〇貫目、割菜四〇貫目、茶二〇貫目、楮一〇貫目、当帰七〇斤、椶櫚皮一千枚とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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