世界大百科事典(旧版)内のBarlaamの言及
【グレゴリオス・パラマス】より
…26年にテッサロニケで聖職につき,再びアトス山に戻った。37年にはカラブリア出身の修道士バルラアムBarlaamが提起した静寂主義論争にまきこまれた。バルラアムは神学上の問題からさらに進んで,アトス山の静寂主義者たちのヨーガに似た特殊な修行方法を攻撃した。…
【バルラームとヨアサフ】より
…仏陀伝説のキリスト教版で,ヨアサフJoasaph(ヨサファトJosaphat)の名はアラビア語ブダサフを経て菩薩にさかのぼる。インドの王子ヨアサフは,父王アベンネルAbennerのあらゆる予防措置にもかかわらず,煩悩を知り,修道士バルラームBarlaamの教化で使徒トマスがインドに伝えたキリスト教を受け入れ,自分の民を改宗に導き,彼らに善行を施すが,やがて王国を捨てて師の許に赴き,敬虔な隠者として一生を送るというもの。ギリシア人はヨアサフを,ロシア人はバルラームとアベンネルまで教会聖人暦に収める。…
【ヘシュカスモス】より
…このような修行方法は14世紀にアトス山の修道士のあいだで盛んになり,人々の注目を引いた。それに対して,南イタリアのカラブリア出身で,西方神学の素養のある修道士バルラアムBarlaamが,14世紀前半に,ヘシュカスモスには異端の疑いがあるとして激しく攻撃し,大論争となった。首都コンスタンティノープルの知識層はバルラアムを支持したが,神学者でテッサロニケ大主教をつとめたグレゴリオス・パラマスがヘシュカスモスを擁護した。…
※「Barlaam」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」