世界大百科事典(旧版)内のKulōttuṅgaIの言及
【チャールキヤ朝】より
…インドのデカン地方に覇をとなえた王朝で,いくつかの系統に分かれる。主要な系統はバーダーミBādāmi,カルヤーニKalyāṇi,東チャールキヤの三つで,前2者を併せて西チャールキヤ朝と呼ぶ場合もある。 バーダーミのチャールキヤ朝(前期西チャールキヤ朝)は,プラケーシン1世Pulakeśin Iによって6世紀半ばにバーダーミを都として始められ,8世紀中葉まで存続した。2代,3代の王キールティバルマン1世Kīrtivarman I,マンガレーシャMangaleśaは初代の子で,王朝の版図を拡大したが,王位継承をめぐって内乱が生じると2代王の子プラケーシン2世が610年ころ叔父マンガレーシャを殺して内乱を鎮定し王位に就いた。…
【チョーラ朝】より
…有力な商人集団とともにバラモンも交易に参加したり,なかには東南アジアに渡り定住した者もあったという。クロートゥンガ1世Kulōttuṅga I(在位1070‐1118)は1077年,宋朝に27人の商人を使節として送った。 仏教,ジャイナ教は王朝の後半期には衰退し,ヒンドゥー教のシバ,ビシュヌ両派が台頭した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」