日本大百科全書(ニッポニカ) 「チョーラ朝」の意味・わかりやすい解説
チョーラ朝
ちょーらちょう
Chōla
南インドの王朝。紀元前3世紀のアショカ王の刻文に半島南部の王朝の一つとしてチェーラ朝、パーンディヤ朝などとともにチョーラ朝の名がみえる。紀元後1~3世紀の状態については、シャンガム文学とよばれるタミル文学の古典を通して知ることができるが、カーベリ河畔のウライユールを都に繁栄した。カーベリパトナムその他の海港を通してローマ帝国との貿易も活発に行われた。2世紀末のカリカーラ王は高名で多くの英雄伝説をもっている。
王朝は4世紀以降姿を消すが、9世紀中葉ビジャヤーラヤによって復活され、やはりカーベリ河畔のタンジャブールを都としてしだいに強力となった。9世紀末には北方のパッラバ朝を倒してその地を手に入れ、10世紀末から11世紀前半にかけてのラージャラージャ1世、ラージェーンドラ1世父子の時代には黄金時代を迎えた。すなわち、ラージャラージャは、半島南端のパーンディヤ朝の地およびケララを征服したのみならず、スリランカの北半をも手中に収め、ラージェーンドラは、さらに海を越えてマレー半島、スマトラにまで遠征隊を送った。北方ではガンジス川流域までチョーラ軍が攻め上り、北西方ではチャールキヤ朝の都カリヤーニをも落としている。1070年東チャールキヤ朝の王が王位につき、クローットゥンガ1世と称したが、これは両親がそれ以前に婚姻を繰り返した結果である。王の内政にはみるべきものがあったが、その時代にスリランカの地が失われ、以後しだいに衰弱し、13世紀にはホイサラ朝の進出を招き、1279年ごろ、北方のカーカティーヤ朝、南方に再興したパーンディヤ朝の挟撃を受けてついに滅亡した。
9~13世紀のチョーラ朝期には多くのバラモンたちを北方から招き、タミル・ナド各地にバラモン村落がつくられ、またシバ神、ビシュヌ神の寺院が数多く建立された。それによってヒンドゥー教の信仰が広く行き渡り、カースト制度の確立をもみた。首都タンジャブールにあるシバ大寺(ブリハディシュワラ寺院)はチョーラ朝期寺院建築のみごとさを今日に伝えている。
[辛島 昇]