安養寺(読み)あんようじ

日本歴史地名大系 「安養寺」の解説

安養寺
あんようじ

[現在地名]東山区円山町

円山まるやま公園の東端にあり、長楽ちようらく寺に北隣する。寺門・本堂ともに西面し、本堂前面一帯は墓地である。山号は円山、時宗。本尊は法然念持仏と称する二尺余の阿弥陀三尊立像(「都名所図会」は安阿弥作と伝える)。寺伝によれば、延暦年間(七八二―八〇六)桓武天皇の勅命により最澄が創建し、その後良源が止住したとする。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔天台宗から時宗へ〕

その後の経緯は明確でないが、建久年中(一一九〇―九九)に天台座主慈鎮(慈円)が中興して隠棲、吉水よしみず坊また慈円大乗院安養寺と称し、青蓮しようれん(現東山区)に属した。「雍州府志」に「旧天台宗之寺也、慈鎮和尚暫、山下吉水吉水和尚」とみえる。慈鎮の後住は法然の弟子で多念義流(小坂義派、長楽寺流とも)の隆寛(長楽寺住持)が兼住した。その後、専修念仏弾圧で廃絶しかけたが、時の住持であった光英(もと霊山正法寺の住持)は寺の護持を国阿に頼み、以後当寺は国阿の支配するところとなり、国阿の弟子宣阿が住持するところとなった(国阿上人絵伝)。これ以降当寺は時宗の霊山派となり、住持は代々宣阿弥陀仏(宣阿)の阿弥号を踏襲する。応永年中(一三九四―一四二八)住持盲僧源照(源昭とも)は琵琶をよくし、宮中で奏せんことを当寺本尊に祈念し、ついに後小松院に召され、恩寵を得て紫衣を授かったという。これが盲人紫衣の初めとされる(都名所図会)。宝徳三年(一四五一)源照は五条坊門烏丸ぼうもんからすまの東(現京都市下京区)にあった堂宇を当寺本堂として移転建立したという(坊目誌)

〔東山千句〕

応仁の兵乱で一時廃絶したがまもなく再興されたと思われ、永正一五年(一五一八)八月には連歌師宗長が、細川氏の被官で摂津芥川あくたがわ(現大阪府高槻市)の城主であった因幡守源頼則(「新撰菟玖波集」に歌が収められる。宗長の後援者)三回忌追善の東山千句(安養寺千句)の興行を催している。

安養寺
あんようじ

[現在地名]倉敷市浅原

ふく山の南山腹にあり、朝原山と号する。高野山真言宗。本尊は金銅阿弥陀如来立像。創建年代などは不詳であるが、裏山の第三経塚出土の瓦経願文に「応徳三年春二月於安養寺」と刻されており、応徳三年(一〇八六)以前の創建が知られる。平安末期には、鹿ヶ谷の陰謀事件に連座して備前国へ流された藤原成親が安養寺に調御房を招き、朝原寺で出家したという(「源平盛衰記」巻七)。また神奈川県立金沢文庫に伝わる鎌倉後期の写本に、「於備中国朝原寺東谷阿弥陀院」「於備中州朝原寺円満院」「於備中州朝原寺安養寺円満院」などの識語がみえ、これらが備中の朝原寺で写されたものを転写したものであることがわかるが、朝原寺で写本した僧は、いずれも真言行者の名号「金剛仏子」を名乗っている。応永三二年(一四二五)の吉備津宮正殿の遷宮の時には、「朝原安養寺」が舞楽を奉仕している(「吉備津宮正殿遷宮次第」吉備津神社文書)。これらの諸史料から、朝原寺・安養寺が中世期に備中における有力寺院であったことがうかがえる。朝原寺と安養寺の関係は、朝原寺を一山の総称、安養寺をそのなかの有力寺院と考えることで理解できる。

今の安養寺は享保二年(一七一七)に二町余り下から移転した。庫裏東側の平坦地はかつて朝原寺一山の中心をなす堂宇(仮に大堂とよぶ)があったと考えられる場所で、ここからは長承元年(一一三二)に建立された現京都市左京区得長寿とくちようじゆ院千体観音堂跡と同形の瓦が出土し、さらにこれより古式の瓦が大量に出土している。

安養寺
あんにようじ

[現在地名]八幡町柳町

八幡山西麓、大手門跡に位置する。遠郷山と号し、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。康元元年(一二五六)近江国の佐々木定道西信が親鸞に帰依し、同国蒲生がもう郡に安要寺を建立したのに始まる。六世仲淳の代に美濃国安八あんぱち大榑おおぐれ庄に転じ、蓮如の命により安養寺と改号。その後伊勢国安濃あのう郡を経て越前国大野郡上穴馬ヶ瀬かみあなまはこヶせ(現福井県大野郡和泉村)に移った後、篠脇しのわき(現大和町)城主東元胤の招きで牛道うしみち(現白鳥町)に堂宇を建て、その時の改元にちなみ延徳えんとく寺と名乗った。天文元年(一五三二)八世了円の代に大島おおしま野里のざと(現同上)に移った後、天正(一五七三―九二)の初め飛騨白川しらかわ郷へ移り、同三年再び野里へ帰った。一一世了誓の代に八幡城主稲葉貞通から中坪なかつぼ園野を寺地にもらい、同一九年三月に堂宇を建立した。堂宇は稲葉氏の老臣稲葉土佐が奉行となって完成させたといわれ、東氏の遺跡である東殿とうど山の館舎が書院として与えられたという。

安養寺
あんにようじ

[現在地名]米子市福市

日野川左岸の長者原ちようじやはら丘陵北端部、旧山市場やまいちば村内にある。会見山と号し、時宗。本尊は阿弥陀如来。縁起によると、元弘二年(一三三二)後醍醐天皇の隠岐配流のとき、皇女瓊子はひそかに天皇の一行に加わり伯耆国まで来たが、身分が発覚して隠岐への随行を許されず、守護佐々木氏に預けられた。瓊子内親王は遊行上人五代安国(六代一鎮の誤りとされる)に帰依して出家、西月院安養尼と称した。この安養尼が開いたのが当寺で、後醍醐帝は本尊阿弥陀仏をおくり、寺領を与え勅願霊場としたと伝える。寺蔵の縁起書によれば安養尼は暦応二年(一三三九)に没し、以後代々弌房号を名乗る尼僧が住持となった。延享二年(一七四五)当寺は無住となったため、遊行上人から以後は沙門寺として僧侶を派遣したいとの願いが鳥取藩に出され、藩は幕府寺社方と相談のうえ翌三年許可している(寺社方御定)。これにより中世以来の尼寺は終りを遂げ、一六世覚阿上人快長以後住持は僧侶が勤めることとなった。

中世には寺領三〇〇石と伝えられるが、近世には寺領一〇〇石を山市場村内に与えられていた。寺領付与の時期は不詳だが、元和四年(一六一八)の池田光政による検地実施以前、中村氏の時代とも考えられる。

安養寺
あんようじ

[現在地名]和気町泉

備前国屈指の天台宗の古刹。山号は照光山、本尊阿弥陀如来。JR山陽本線の和気駅から東方約一キロ、吉井川の支流金剛こんごう川ほとりの景勝地にある。現在の安養寺は本堂のほかに阿弥陀堂・十王堂・弁天堂・山王社・庫裏などをもつ普通の寺院にすぎないが、中世は多くの僧房・寺領・衆徒をもち、備前国新田にうた庄おける最大の寺院として中央にも聞え、朝野の信仰を集めた。古代山陽道は当寺の近くを通り、「源平盛衰記」巻三三にみえる「和気渡」も近く、「藤野寺ト云古御堂」は、当寺のこととも考えられる。

天和四年(一六八四)の由来書上(寺蔵文書、以下同文書)など近世の寺伝によると、孝謙天皇の勅願で報恩大師が備前国に創建した四八ヵ寺の一つ。のち康保元年(九六四)播磨国書写山円教えんきよう(現兵庫県姫路市)の性空の嫡弟信願が勅を奉じて七堂伽藍を再建し、開山となった。寺領田畠四八町歩が寄進され、山内五〇坊が宇をつらね、以後、村上天皇勅願所として寺運興隆したという。中世には北条氏・足利氏、さらに守護赤松氏の代々の祈願所にもなったが、永正年間(一五〇四―二一)兵火にかかり、如法堂・山王宮・香堂の三宇と、寺内一二坊を残すのみとなって衰微したと伝える。

安養寺
あんようじ

[現在地名]久御山町東一口

宇治うじ川の支流、北西に流れるふる川の右岸に位置する。紫金山と号し、浄土宗。本尊は十一面観音。開創は、安永年間(一七七二―八一)に記された寺蔵の弥陀次郎縁起に「人皇七十五代崇徳院御宇、天治元年、今此一口淀魚の市にありしとき」とある。また文化五年(一八〇八)の寺社境内間数明細帳(中西家蔵)によれば、天治元年(一一二四)源誓の開基、中興(年代不詳)を空誉とし、中島なかじま(現久御山町)華台けだい寺末とある。古くは淀魚の市(現京都市伏見区)にあったが、のち現在地に移転したという。

安養寺
あんようじ

[現在地名]中京区東側町

蛸薬師たこやくし通の南、新京極しんきようごく通東側に位置する。八葉山と号し、浄土宗西山禅林寺派。本尊阿弥陀如来。本尊の蓮台が逆さまになっているところから、俗に倒蓮華さかれんげ寺ともよばれる。寺伝によれば、寛和年間(九八五―九八七)比叡山横川よかわの源信が、大和国当麻たいま(現奈良県當麻町)に建てた華台かだい院に始まるという。源信の妹安養尼がその跡を継ぎ、寺名も安養寺と改称。

安養寺
あんようじ

[現在地名]栗東町安養寺

真宗大谷派。鉤山と号し、本尊阿弥陀如来。寺伝によれば応永二三年(一四一六)良舜の開基という。享徳三年(一四五四)四月一七日、浄性が蓮如書写の往生要集延書(明性寺蔵)を与えられており(同書奥書)、この頃本願寺の傘下に参入したと思われる。「本福寺由来記」のなかの「御本寺様之生身之御影像本福寺ヘ御下向之事」と題された部分に、「ヤカテ江州栗本ノ郡安養寺カウシ坊ノ道場ヘ御下向アリテ七十日ハカリ御座候ナリ(中略)応仁元ノ暦交鏡上旬ノ比、当所下ハヽカラサキノハマヘ御船ヲツケ申サレ、馬場本福寺道場ヘ御光臨ヲハシマシマシ」とあり、寛正六年(一四六五)延暦寺衆徒による京都大谷本願寺の破却後、蓮如は一時根本の御影(親鸞木像)を携えて当寺(幸子坊道場)に滞留、のち本福ほんぷく(現滋賀県大津市)へ移っている。

安養寺
あんようじ

[現在地名]有田市古江見

寺谷てらたににある。古江見山平等院と号し、真言宗御室派。本尊十一面観音。もと古義真言宗施無畏せむい(現和歌山県湯浅町)末。寺伝に弘仁年中(八一〇―八二四)空海が開基し、建久年中(一一九〇―九九)に再興され、室町時代には当地の在地領主宮崎氏歴代の祈願所となったが、天正(一五七三―九二)の兵乱で焼失、正徳二年(一七一二)に信澄が堂宇を再建、安養寺を再興したという。

当地には鎌倉―室町時代古江見こえみ寺と総称される寺があり、安養寺はその本坊であった。

安養寺
あんようじ

[現在地名]美作町林野

吉野よしの川右岸、倉敷くらしき城跡の南にある真言宗御室派寺院。山号間山はしたやま、本尊十一面観音。嘉元三年(一三〇五)四月頃とみられる摂渡庄目録(九条家文書)にある「美作国安養寺」は当寺のことか。山号間山から上相かみやにあった間山高福こうふく寺との関連がうかがえるが、これについては記録上異説がある。

「東作誌」倉敷村の項によれば、倉敷には古来寺院がなかったため湯郷ゆのごう長興ちようこう寺の岡本坊宥慶が天台宗安養寺をさわ村から移し、惣持院と号した。慶長六年(一六〇一)の宥慶の死後無住となったため、倉敷村庄屋の千種屋宗兵衛や荒木田あらきだ村の西田兵衛らが願主となり、間山高福寺の弟子慶智を住職とした。慶智は間山の衰退を嘆き、当寺を間山と称したとあり、慶智の頃にこの山号を用いたものか。

安養寺
あんにようじ

[現在地名]南部町芝

天神山叶応院と号し、真言宗御室派。本尊は阿弥陀如来。元禄二年(一六八九)の安養寺縁起(寺蔵)によれば、寛和年中(九八五―九八七)源信が熊野三山参詣の途次当地に立寄り一宇を建立、自刻の仏像を本尊とし、古くからあった天満天神宮を鎮守とし、天神山叶応院安養寺と号したのに始まるという。その後しだいに堂塔が建てられたが、平治の乱の兵火に残らず焼失、時の住職は本尊三仏を井戸に沈めて難を避けたという。

安養寺
あんようじ

[現在地名]高松市古馬場町

古馬場ふるばば町の東部、御坊ごぼう高松興正たかまつこうしよう寺別院(御坊)の南にある。山号は千葉山、真宗興正派。本尊阿弥陀如来像は安阿弥作で生駒一正の寄進と伝える(讃岐国名勝図会)。寺伝によると、宝治元年(一二四七)関東から来た千葉常重が建立したという安楽寺(現徳島県美馬郡美馬町)から分れた寺で、文安年間(一四四四―四九)安楽寺が焼失したあと、寺僧円明が寛正年間(一四六〇―六六)香東こうとう川内原かわないはら(現香川郡香川町)に一寺を建立、円明えんめい坊と称していた。天正年間(一五七三―九二)長宗我部軍に討たれ再び焼失、生駒氏はこれを保護して再建し、松平頼重も寺領を与えて、元禄二年(一六八九)高松城下の現在地に移築。

安養寺
あんようじ

[現在地名]明和町上野

山号は長松山。臨済宗東福寺派。本尊十一面観音立像。永仁五年(一二九七)の建立という。京都東福とうふく寺九世痴兀大恵を開山とする。二五通の紙本墨書痴兀大恵印信・紙本墨書安養寺文書(県指定文化財)などが残されている。延慶三年(一三一〇)二月一六日付大恵禁制(安養寺文書)に「安養寺自今以後条々禁制事」として「一塔頭結構荘厳造営事 一現住僧衆以廿人可為定量事 一号自食沙弥喝食其数多々事 一以五辛入寺内事 一列座薬酒放逸受用赤面事 一方丈寺中垂髪童形来臨夜宿事 一若在俗出家、若出家聖道、不捨本所住、仮僧形、彼此兼住事」の七ヵ条がみえる。

安養寺
あんようじ

[現在地名]坂井村永井 松場

冠着かむりき山の西南麓にあり真言宗智山派。山号は冠着山。本尊は釈迦如来。本堂・庫裏のみを残している。江戸時代は小県ちいさがた前山まえやま(現上田市前山)の真言宗ぜん山さん寺の末寺であった。

この地は古く更級さらしな郡に属し、安養寺は貞観八年(八六六)定額に列した信濃五寺の定額寺の一つであった。中世に衰退したが、弘治元年(一五五五)経兪法印が中興した。

寺域には大型の五輪塔があり、鎌倉期のものとされている。また昭和五一年(一九七六)本堂の西に接する下段の畑地を整備中、火災に遭った寺堂の跡、礎石・焼木材・焼茅、平安末と思われる土師器壺・須恵器甕などが出土した。

安養寺
あんようじ

[現在地名]宇都宮市材木町

西をしん川が流れる平坦な地にある。かつての城下西端の地、鹿沼道の北側で、道を隔てて観専かんせん寺に向い合う。北遊山華岳院と号し、浄土真宗本願寺派、本尊阿弥陀如来。元仁元年(一二二四)親鸞が国府こくぶ惣社花見そうじやはなみヶ岳(現下都賀郡国分寺町)に一寺を建立、直弟二十四輩第三番順信房に譲って安養寺と名付けたという。また二十四輩第四番柿岡乗念坊の寺系を引くとも伝える(下野国誌)。元和八年(一六二二)塩谷郡土屋山田つちややまだ(現矢板市)に移転、さらに寛永年間(一六二四―四四)宇都宮二里山にりやまに移り、正保期(一六四四―四八)に現在地に移ったという。

安養寺
あんようじ

[現在地名]城陽市大字平川 指月

平井ひらい神社の西側に位置し、受楽山と号し、浄土宗、本尊阿弥陀如来。

古くは安養院と称し、「山城名勝志」には「安養院、在于平川郷云々、今平川村在久世郡大久保村南久世村北」と記し、続けて「松井郷成願寺鐘銘ニ云、沙弥仏阿法阿、弘長二年寄平河郷安養院鐘楼修理料畠事、四至南北縄西縄東際目、右山城国久世郡馬耳田里一坪内、件畠者十念相伝知行無相違者也、件畠所寄進真実也、文保三年己未卯月八日、当寺鐘勧進聖沙弥十念敬白」という文書を掲げている。

安養寺
あんようじ

[現在地名]喬木村阿島 寺の前

阿島あじまの北東部、寺の前にあり、西側を加々須かかす川が流れる。寺は加々須川氾濫原より一段上の台地上に位置。真言宗智山派、寺浦山と号す。本尊は不動明王、脇本尊は毘沙門天(木像)

創立年月はつまびらかでないが、京都醍醐寺理性院厳助の「信州下向記」に天文二年(一五三三)五月「今日文永寺衆・安養(寺)衆等御礼申」の記述がみられる。室町中期頃の創立と推定される。天文二一年知久頼康は阿島郷の安養寺堂舎再建を行っている。

永禄一一年(一五六八)には、武田信玄朱印状(安養寺文書)として「信州伊那郡阿嶋郷之内旧御寺領拾緡之所、被還付」とあり、天正二年(一五七四)武田勝頼は、部将日向虎頭に毘沙門堂修復を命じている。

安養寺
あんようじ

[現在地名]左京区粟田口山下町

蹴上けあげ東方、大日だいにち山の西麓に位置、青竜山と号し、西山浄土宗。本尊阿弥陀如来は恵心(源信)作と伝える。傍らに開基の円仁像を安置。寺伝によれば初め天台宗で神明山の南東麓、一切経いつさいきよう(現京都市山科区)の辺りに円仁が創建。応仁元年(一四六七)兵火にかかり退転、延徳年中(一四八九―九二)比丘尼智照が現在地に庵を結んで再興(粟田旧記)、天正一八年(一五九〇)僧道観(永養と号する)が入寺して浄土宗に改宗、二世一忠のとき清浄華しようじようけ(現京都市上京区)に請うて寺号を安養寺と称した。

安養寺
あんにようじ

[現在地名]美都町山本

葛籠つづら川と金谷かねだに川の合流点西側山麓にある。深宝山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。明治四四年(一九一一)現在地に移築されたもので、もとは南方野々のの峠を越して澄川すみかわ(現匹見町)へ通じる丸山まるやまにあった。能登のと川の上流左岸に寺屋敷跡が残る。開基は山烏行淵といわれ、元慶五年(八八一)諸国行脚の折、丸山において銅鉱を発見、採鉱されるようになると、草庵を結び真言宗正福しようふく寺としたと伝える。

安養寺
あんようじ

[現在地名]高森町下市田

下市田の中央部、松岡まつおか城の眼下に位置する。臨済宗、松岡山と号す。本尊は阿弥陀如来。

享保三年(一七一八)竹佐たけさ観音かんのん(現飯田市竹佐)の住持東漸惟法によって記述された「松岡山安養禅寺記」によれば、延元(一三三六―四〇)の頃、松岡城主伊予守貞景(道山心公)が開善寺(現飯田市上川路かみかわじ)住持古鏡明千を請じて開山としたと伝えられる。古鏡明千は二〇年間元に滞在の後、「百丈清規」を印刻・流布させたことで知られる。

安養寺
あんにようじ

[現在地名]久留米市御井町

高良こうら山の麓、上町にある浄土宗の寺。寺号は「あんよう」とも。厨山聖光院と号する。本尊は阿弥陀如来。脇士は観音菩薩勢至菩薩で、伝行基作。古く府中ふちゆう(現御井町)の地頭厨氏が田地・堂舎を寄進して建立、累世の檀越となったのでくりや寺とも称された(校訂筑後志)。当時は天台宗に属したが、元久元年(一二〇四)筑後に下向した浄土宗二世聖光が厨寺で千日如法念仏を修し、以来浄土宗に帰したという(聖光上人伝)。この念仏修法のとき、高良山の衆徒が大評定を開き、高良山は昔から真言・天台の学地であり、速やかに念仏衆を追払えと翌朝を期して厨寺に押寄せることを決定、念仏衆は退散するよう勧めたが、聖光は自若として動じなかったと伝える。

安養寺
あんようじ

[現在地名]丹原町明穂

玉山たまやま筋にある。大乗山と号し、高野山真言宗。本尊阿弥陀如来。「周布郡大手鏡」に「高野山金剛三昧院末寺 真言宗 太宗山極楽院 南坊安養寺 本尊阿弥陀」とあり、寺内に弁財天祠と天神祠があるとも記す。「伊予国周布郡地誌」には「境内東西拾五間、南北拾五間、面積一反六畝拾九歩、村の西方拾九町飛地字玉山筋ニアリ」と明治初期の寺地について記す。

寺伝によると開基は報恩、延暦一三年(七九四)の創建で、盛時には山上六院山下六院があったという。

安養寺
あんようじ

[現在地名]唐津市東唐津二丁目

東唐津の市街のほぼ中央にある。満島山と号し、浄土宗。天正一二年(一五八四)珍誉上人の開山で、本尊は阿弥陀如来。ほかに多くの仏像を安置し、木彫延命地蔵仏は海岸に打ち上げられたものといい、津守つもり観音像は満島山まんとうざんより移したものである。

藩政初期、寺沢志摩守が松浦川改修の際、当時の河口のハライテぐちをせき止め、現在の河口に通水する工事に、安養寺の宝誉が発議して卒都婆木一千本を用いて成功した。

安養寺
あんようじ

[現在地名]岡山市日近

日近ひぢかい川左岸の山の中腹にある。臨済宗建仁寺派。救世山と号する。本尊は千手観音。かつては天台宗で、「元亨釈書」巻二に「師事郡之安養寺静心」とあるように、備中吉備津に生れた栄西が一一歳で入寺し、得度したと伝える。「備中誌」に「数世無住」とあり、貞享二年(一六八五)の賀陽郡・上房郡寺社改帳(総社市史編さん室蔵)には寺としての記載はなく、観音堂が安養寺摩訶上人の開基で大龍だいりゆう(上願寺)構え、摩訶上人堂が往古は石の宝殿で雨乞に奇特があり、万治四年(一六六一)領内の総割符で堂を建立、王子権現・荒神社が同所にあると記すのみである。

安養寺
あんようじ

[現在地名]佐久市安原

臨済宗宝林山安養寺。本尊阿弥陀三尊。弘安年間(一二七八―八八)心地覚心(法燈円明国師)によって寺平てらだいら地籍に開創され、貞治年間(一三六二―六八)に大歇勇健が現在地に移して中興開山となったと伝える(北佐久郡志)

大井庄の地頭大井氏の帰依厚く、大井朝光をはじめ六代の遺骨を納める。永享の乱(永享一〇年)で敗死した関東管領足利持氏の子永寿王は、乳母の兄が住僧をしていた当寺に逃れ、大井氏もよくこれを保護した。

安養寺
あんようじ

[現在地名]山形市蔵王半郷

解大山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。寺伝によれば慈覚大師の高弟心能の開山といわれ、もとは天台宗で山寺やまでらにあり、安養院と称したという。宮城県名取市新宮しんぐう寺蔵の大乗大方等日蔵経写経巻八の奥書によれば、写経は永仁四年(一二九六)に「最上郡小鶴郷安養寺」で行われている。この安養寺を当寺とみる説があるが確かではない。延文年間(一三五六―六一)楢下ならげ(現上山市)に移転、無着妙融により曹洞宗に改められ、安養寺と称した。元和年間(一六一五―二四)に現在地に移転したという。

安養寺
あんようじ

[現在地名]多治見市白山町

土岐川北岸、JR中央本線多治見駅北方の平坦地にある。寂光山と号し、曹洞宗、本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば当寺の前身は清水しみずの地蔵尊境内(現田代町)にあった真言宗の寺で、池田町屋いけだまちや明円みようえん寺の末寺であったという。文安六年(一四四九)八月の本土ほんど神社新造の際の棟札裏書に「世次安養寺六百文」とみえるのは当寺のことか。

安養寺
あんようじ

[現在地名]東大阪市四条町

浄土真宗本願寺派、山号大龍山、本尊阿弥陀如来。草創に関する確たる史料はないが、室町時代に四条しじよう村の惣道場として開かれたようで、寺地は旧村域の中央を占める。寺蔵の阿弥陀如来画像は枚岡地区では最古のもので、永正七年(一五一〇)の裏書には「大谷本願寺釈実如、永正七年十二月五日、興正寺門徒河内国河内郡、平岡郷四条村惣道場也」と、本願寺実如下付の旨を記す。

安養寺
あんようじ

[現在地名]刈谷市熊野町

熊野くまの町の西、碧海へきかい台地の端に位置する。海上山と号し、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。寺伝によるともと天台宗で、文亀三年(一五〇三)の春、養巌と称する僧が八幡山に一宇を建立して専光せんこう坊と称し、本尊は熊野三社大権現であったという。天文一八年(一五四九)四月七日付で本証ほんしよう(現安城市)住職となった「あい松」の支持と本願ほんがん寺への忠節を誓った有力門徒の連判状に、熊村三浦源左衛門尉家長がある(本願寺文書)から、当時すでに安養寺は真宗に転じ、本証寺の末寺であったと思われる。

安養寺
あんようじ

[現在地名]奈良市鳴川町

鳴川なるかわ町の西側に所在。紫雲山と号し、西山浄土宗。阿弥陀堂・横佩よこはぎ堂ともいう。本尊阿弥陀三尊像(奈良国立博物館委託)。平城天皇の創立で、開基は中将姫という。もと現奈良市東城戸ひがしじようど町にあったが、慶安二年(一六四九)当地に移建したと伝えられる。三尊のうち観音・勢至両菩薩は盗難にあい、伊賀国阿佐宇陀あさうだ荘の九品くほん(現三重県上野市)に移されていたのを織田信長によって返されたという。

安養寺
あんようじ

[現在地名]岱明町山下 清水尾

山下の集落の西部にあり、湧出山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。「国誌」によると初めは天台宗で、源信の弟子宿厳が長和二年(一〇一三)開山という。「郡村誌」では草創時は千福寺と称し、元永二年(一一一九)八代快円が安養寺と改めたとする。「国誌」にはそののち当所一帯の領主大野氏が帰依し、同氏が信服していた禅宗に仁治二年(一二四一)改宗、同氏は寺領一三町を寄進、四八代乗心の天文七年(一五三八)に真宗に改めたという。

安養寺
あんようじ

[現在地名]田原本町大字八尾

てら川左岸(西岸)にある。法性山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。寛永一〇年(一六三三)の創建、開山は源蓮社宝誉という(蓮門精舎旧詞)。また寺川対岸にあった浄国じようこく寺を元禄年間(一六八八―一七〇四)に左岸に移転して安養寺としたとも伝える。京都知恩院の直末寺で、末寺には三ヵ寺があった(教安寺文書)

安養寺
あんようじ

[現在地名]奈良市北袋町

佐保さほ川左岸、北袋町南端にある。寂照山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。「奈良坊目拙解」によると平城天皇の本願、行基の開基で、もと現奈良市東城戸ひがしじようど町にあったが、天文元年(一五三二)の土一揆で荒廃した。その後再興され、慶安二年(一六四九)現在地に移建され、現在は小堂一宇を残す。

安養寺
あんようじ

[現在地名]八代市本町三丁目

光寿山と号し、浄土真宗本願寺派、本尊阿弥陀如来。慶長八年(一六〇三)加藤正方が母妙慶禅尼の檀那寺として麦島むぎしまに建立。元和八年(一六二二)八代新城移転とともに、寺も大手口魚屋うおや町に移した。寛永四年(一六二七)妙慶禅尼が死去し、同地に新寺を造った。寛永九年細川忠興により現在地に移された。

安養寺
あんようじ

[現在地名]波田町三溝

村の東にあり、浄土真宗本願寺派で山号は周防山。開基は文亀元年(一五〇一)と「信府統記」にある。「東筑摩郡村誌」には文永一〇年(一二七三)八月道祐和尚の開基とある。

安養寺
あんようじ

[現在地名]新宿区住吉町

安養寺坂の南にある浄土宗の寺院で、清光山林泉院と号する。開創は天正二年(一五七四)、開山は心蓮社深誉。かつて寺地は市谷富士見いちがやふじみ坂にあったが、明暦二年(一六五六)同所が尾張徳川家の拝領地となったことから、代地として当地を拝領した。拝領境内地は一千三〇九坪。本尊の阿弥陀如来は源信作と伝える坐像で、高さ一尺八寸、台座が二尺、船光背が二尺五寸。

安養寺
あんようじ

[現在地名]下関市大字吉見上

吉見上よしみかみの南西部、野添のぞえにある。高野山真言宗で松尾山と号し、本尊は阿弥陀如来。

寺伝によれば、天平年間(七二九―七四九)行基が国分寺建立促進検分のため勅命によって西下、九州からの帰途、文殊・阿弥陀の二尊像を彫刻して奉安したのが当寺の創建といい、室町時代末までは天台・真言・禅・浄土の四宗兼学であったが、弘治二年(一五五六)大内義長の命によって真言宗になったという。

安養寺
あんようじ

[現在地名]宇和町岩木

臨済宗妙心寺派で「宇和旧記」は「本尊阿弥陀、禅宗、開基不知」と記す。応永年間(一三九四―一四二八)曇芳が下岩木しもいわき村の成徳せいとく寺を再興し、霊岩山安養寺と改めたという。曇芳は応永一四年と同一五年に大般若経を書写して当寺に納めた。さらに、文明一〇年(一四七八)から延徳二年(一四九〇)にかけて、住持祖隆の本願により大般若経が補写された。

安養寺
あんようじ

[現在地名]中島町二神

島の中央、集落の西にある。妙見山無碍光院と号し、真言宗豊山派。本尊は阿弥陀如来。

明治一一年(一八七八)の「伊予国風早郡地誌」に「安養寺 真言宗、温泉郡石手寺ノ末派ナリ、境内東西弐拾六間南北七間壱尺、面積百九拾五坪、村ノ中央字本浦ニアリ、開基創建年月不詳、宝暦中堂宇火災罹リ僧鏡栄中興ス」とある。開基年は不詳であるが、豊田二神嫡流系図写(二神司朗氏蔵)に「二神家真は二神安養寺開基」となっており、家真が一五世紀の人物であることから中世起源の寺院と推定される。

安養寺
あんようじ

[現在地名]大田区西六郷二丁目

多摩川左岸沿いにある。医王山と号し、本尊薬師如来。真言宗智山派。江戸時代には古川ふるかわ薬師と通称。正徳五年(一七一五)の安養寺縁起(安養寺文書)によると、和銅三年(七一〇)行基が開創、薬師如来像と両脇侍如来像を造って安置した。聖武天皇の皇子が乳を飲まずに衰弱したとき、この薬師の霊験で美味な母乳を得て延命することができたという。永禄年間(一五五八―七〇)栄伝が薬師堂の東に別当寺の安養寺を再興。

安養寺
あんようじ

[現在地名]大津市南郷五丁目

鹿跳ししとびの近くにある。浄土宗。立木山と号する。厄除けの立木たちき観音として知られ、弘仁六年(八一五)弘法大師の創建と伝える。瀬田せた川対岸に輝く霊木を見つけた大師を白い雄鹿が背に乗せて急流を渡った。これを観音の導きとして立木の霊木に観音を刻み、一寺を建立したのが始まりという。

安養寺
あんようじ

[現在地名]南牧村大日向 屋敷

南牧川の左岸沿いにある。天台宗、来迎山普光院と号し、本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば明応八年(一四九九)重照が創建、当時は滝沢山と称したという。宝暦八年(一七五八)現在地に再建した。八月一四―一五日の連夜、当寺を中心とした山と川原で百八灯の一種として「火とぼし」が行われる。起源は、永禄期(一五五八―七〇)に武田信玄が西上州に攻入った際、地元の領主に反抗した住民が武田勢を助け、地元領主を打破ったときの喜びを火祭の形で表したものが伝承されたものという。

安養寺
あんようじ

[現在地名]久美浜町字安養寺

安養寺集落の口付近、東側山麓にある。山号は普門山、曹洞宗系の単立寺院。本尊の十一面観世音菩薩は定朝作と伝える。

寺記によれば、保延四年(一一三八)永信霊昌が南都東大寺から移り、伽藍を建立したと伝える。のち寛文三年(一六六三)宮津智源ちげん寺二世橘州宗曇を請じ、曹洞宗に改宗し再興したという(熊野郡誌)

安養寺
あんようじ

[現在地名]茂木町茂木

藤縄山と号し曹洞宗、本尊阿弥陀如来。開基は安養尼。安養尼は茂木元久の娘で源頼朝の側室。頼朝死後、当地に帰り、閑居山実相庵を建立した。安養尼は懐妊しており、帰郷後誕生したのが茂木義定という。尼は安養寺を建立、五輪塔を建てて頼朝の菩提を弔ったという。

安養寺
あんようじ

[現在地名]新市町新市 松隈

亀寿かめじゆ山の東南麓にある。西光山と号し真言宗御室派、本尊十一面観音。延喜四年(九〇四)理源大師の開基と伝え、「福山志料」に「抑当寺者、往昔在栗柄村、称鴫谷寺、有地城主有地美作守元盛公之祈願寺、而十坊余宇之本院也、故至今称地名於鴫谷、其後改転号卒山竜華寺、前住侶阿闍梨宥秀、寛永年中選勝境移此、又元禄十一年戊寅歳、住持弁意再改而称西光山安養寺、故迄今鴫谷郷民、挙而尊崇如執玉奉盈者、是此謂乎」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「安養寺」の意味・わかりやすい解説

安養寺
あんようじ

鳥取県米子(よなご)市福市(ふくいち)にある寺。会見山西月院(さいげついん)と号し、時宗(じしゅう)に属する。1331年(元弘1)後醍醐(ごだいご)天皇の隠岐(おき)配流のとき、その身を案じた皇女瓊子(たまこ)内親王は当地まで随従して尼僧(安養尼)となったが、天皇還幸ののち、建武(けんむ)年間(1334~1336)に後醍醐天皇勅願所として瓊子内親王によって創建された。内親王没後、15代までは尼寺。江戸時代には寺領100石の朱印地として明治維新まで栄えた。本尊の阿弥陀如来(あみだにょらい)は鎌倉時代の春日(かすが)仏師の作と伝えられる。

[大鹿実秋]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル大辞泉プラス 「安養寺」の解説

安養寺

滋賀県栗東市にある真言宗の寺院。740年開基。鎌倉時代後期に建てられた石造りの十三重塔は国の重要文化財に指定されている。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

事典・日本の観光資源 「安養寺」の解説

安養寺

(長野県東筑摩郡筑北村)
信州の古寺百選」指定の観光名所。

安養寺

(長野県佐久市)
信州の古寺百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

今日のキーワード

潮力発電

潮の干満の差の大きい所で、満潮時に蓄えた海水を干潮時に放流し、水力発電と同じ原理でタービンを回す発電方式。潮汐ちょうせき発電。...

潮力発電の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android