日本大百科全書(ニッポニカ) 「宅間派」の意味・わかりやすい解説
宅間派
たくまは
平安末期から南北朝ころまで存続した画派。宅磨、詫摩、宅摩、託麻、沢間などとも記される。宅間為遠(ためとお)に始まり、鎌倉初期には為遠の子、勝賀(しょうが)・為久(ためひさ)らが仏画制作を中心に活躍した。勝賀は1184年(元暦1)に法橋(ほっきょう)に任じられ、京都の神護寺(じんごじ)や東寺(とうじ)に関係した作画活動を行っている。91年(建久2)勝賀によって描かれた東寺の『十二天屏風(びょうぶ)』(国宝)には、当時の中国画、すなわち宋(そう)画の新しい影響が明らかにみられる。一方、為久は再々鎌倉に赴き仏画を制作しているが、その活動は宅間派の地方普及につながった。13世紀前半に京都・高山(こうざん)寺の明恵上人(みょうえしょうにん)の周辺で活躍した俊賀(しゅんが)や、同じく『明恵上人像』(国宝、高山寺)の作者として知られる恵日房成忍(えにちぼうじょうにん)も、同派と関係の深い画家と考えられる。鎌倉時代後半には長賀(ちょうが)、さらに栄賀(えいが)が輩出し、それぞれ遺品が現存する。とくに栄賀筆『十六羅漢(らかん)図』(重文、大阪市・藤田美術館)には漢画の先駆的な表現がみられる。
[加藤悦子]