朝日日本歴史人物事典 「小野滋野」の解説
小野滋野
8世紀後半の官人。宝亀8(777)年6月第14次遣唐判官として入唐,翌7月揚州海陵県(江蘇省泰州市)に漂着した。安禄山の乱(755~763)の余波で長安への入京者が60人(65人とも)に制限されたということもあったが,翌年1月長安城に至り皇帝に謁見,役目を果たしたのち6月揚州にもどり,9月に中国を離れ,10月肥前国松浦郡橘浦(長崎県上五島町あるいは玉之浦町付近とも)に帰着。時に身分は勅旨大丞正六位上兼下総権介。ちなみに帰途に遭難,大使代行を務めた小野石根は唐使趙宝英らと共に海中に没し,亡父の故郷をめざし唐から乗り込んだ前入唐大使藤原清河の娘喜娘が九死に一生を得て薩摩国(鹿児島県)にたどり着くなど,凄惨を極めたものだった。滋野は翌10年4月従五位下,11年3月豊前守に任。
(瀧浪貞子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報