改訂新版 世界大百科事典 「李容翊」の意味・わかりやすい解説
李容翊 (りようよく)
(R)I Yong-ik
生没年:1854-1907
朝鮮,李朝末期の政治家。咸鏡道出身。1882年の壬午軍乱時に閔妃(びんひ)の忠州逃避行を助けて高宗の信任を得,90年代初めにかけて江界府使兼西北鉱務監理など北部朝鮮の要地の地方官を歴任した。1888年には在任中の不法誅求の罪で一時期,全羅道智島に流配された。97年典圜(てんえん)局長となり貨幣発行にあたる一方,宮内府の高官として鉄道計画,人参専売,鉱山の事務を管轄下に入れ,皇室財政の拡張を実現した。99年には宮内府内蔵院卿となり,宮中を拠点として外国借款導入による鉄道建設,中央銀行設立,幣制改革等を試みたが,日本の圧力により失敗した。1904年1月,軍部大臣,度支部大臣となったが日露戦争が始まると日本の干渉により失脚し,日本へ赴かされた。05年帰国後再び要職に就きロシア,フランスとの連携工作を画策して失敗,ロシアに亡命し,ウラジオストクに客死した。
執筆者:糟谷 憲一
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