江戸・東京(読み)えど・とうきよう

日本歴史地名大系 「江戸・東京」の解説

江戸・東京
えど・とうきよう

中世は太田道灌が築いた江戸城の城下、近世には徳川氏の居城である江戸城の所在地。幕末には世界最大級の人口を有する都市であった。

江戸

〔中世〕

弘長元年(一二六一)一〇月三日の江戸長重避状(関興寺文書)に「豊嶋郡江戸郷之内前嶋村」とみえるのが早い。史料上は一貫して豊島郡に属し、現在の千代田(皇居)および丸の内まるのうち大手おおて町、中央区日本橋一帯にあたると考えられる。「江戸」の語は、当地を名字の地とした秩父平氏の江戸氏が鎌倉幕府の草創に寄与したことにより記録に表れる(「吾妻鏡」治承四年八月二六日条など)。江戸氏の居館は近世の江戸城本丸付近にあったと思われるが確証はない。日比谷ひびや入江に注ぐひら(神田川旧流路)沿いに開けた平川ひらかわ村が中心であったらしい。貞治元年(一三六二)一二月に豊嶋郡江戸郷山王宮住僧三名が熊野へ参詣していることから(同月一七日「旦那願文」熊野那智大社文書)、山王宮が郷鎮守であったと推定される。当郷を開発した江戸氏が同族の河越氏にならって後白河法皇創建の新日吉いまひえ(現京都市東山区)へ寄進し、自らは地頭となったとも考えられる。隅田川河口には江戸湊が栄えたといわれ、室町時代成立の「義経記」は江戸重長を坂東八ヵ国の大福長者と描写するが、鎌倉時代の江戸湊の存在を示す積極的な史料はない。

室町時代江戸が水運の拠点となったことは認められる。港湾環境の整備のため平川を隅田川に向けた流路に変えたのもこの頃のことと推定されている。江戸氏は鎌倉後期には弱体化したらしく、弘長元年に江戸長重が先祖相伝の所領であった江戸郷内前島まえじま村を、北条得宗家に譲渡している(前掲避状)。以後日比谷入江に面する前島村は鎌倉円覚寺領となった(建武四年七月一〇日「足利直義安堵状」円覚寺文書など)。江戸郷の中心集落であった下平川には平将門の首塚と伝承される墳墓があり、傍らに神田明神・築土つくど明神が祀られ、時衆の道場日輪にちりん寺があったという。神田明神は徳川家康によって湯島台へ移された。芝崎しばざき村もこの付近と伝えるが(「寺社備考」など)、確実な位置は伝承されていない。

長禄元年(一四五七)扇谷上杉氏の家宰太田道灌は旧荒川・入間川を防衛線として固めるため、武蔵河越かわごえ(現埼玉県川越市)とともに江戸城を構築し城主として入部した。道灌による江戸城の建造は、軍事施設だけでなく城下の集落の整備にまで及び、江戸は南関東有数の港湾都市となり、江戸城下には扇谷上杉氏の家臣団が集住した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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