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徳川家康 とくがわ いえやす

14件 の用語解説(徳川家康の意味・用語解説を検索)

美術人名辞典の解説

徳川家康

徳川幕府初代将軍。岡崎城主松平広忠の長男。幼名は竹千代、のち元信・元康、院号を安国院。6才の時織田・今川の人質となるが桶狭間の戦で岡崎にもどり、信長と結んで勢力を拡大、信長歿後は豊臣秀吉と対立するが和睦し、秀吉の天下統一に協力する。秀吉の死後、関ヶ原の戦石田三成を破り対抗勢力の一掃に成功、征夷大将軍となる。大坂冬・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、名実共に天下を統一して幕府の基礎を固めた。元和2年(1616)歿、75才。

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デジタル大辞泉の解説

とくがわ‐いえやす〔トクがはいへやす〕【徳川家康】

[1542~1616]江戸幕府初代将軍。在職1603~1605。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣氏五大老の筆頭となり、秀吉の死後石田三成関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。秀忠に将軍職を譲ったのち駿府(すんぷ)に隠退したが、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、武家諸法度などを定めて、幕政の基礎を築いた。東照大権現
山岡荘八大河小説北海道新聞などで昭和25~42年(1950~1967)に発表。昭和40年(1965)、伊藤大輔監督・脚本により映画化。出演、北大路欣也万屋錦之介有馬稲子ほか。

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百科事典マイペディアの解説

徳川家康【とくがわいえやす】

江戸幕府初代将軍。三河国岡崎城内で生まれる。幼名は竹千代。父は岡崎城主松平広忠,母は刈谷城主水野忠政の娘(於大の方(おだいのかた),法号伝通院(でんづういん))。(1542-1616)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

徳川家康 とくがわ-いえやす

1543*-1616 江戸幕府初代将軍。在職1603-05。
天文(てんぶん)11年12月26日生まれ。松平広忠(ひろただ)の長男。母は於大の方(伝通院)。8歳で今川氏の人質となって駿府(すんぷ)ですごし,永禄(えいろく)3年19歳のとき三河(愛知県)岡崎城にもどる。4年織田信長と同盟をむすぶ。7年三河一向一揆(いっき)をおさめ,9年徳川に改姓。本能寺の変ののち羽柴(豊臣)秀吉と和睦して秀吉の天下統一に協力。天正(てんしょう)18年江戸にうつる。秀吉没後,関ケ原の戦いで天下を手中におさめ,慶長8年征夷大将軍となり,幕府を開設。10年子の秀忠に将軍職をゆずるが,駿府に引退後も大御所として秀忠を後見した。元和(げんな)2年4月17日死去。75歳。追贈正一位。幼名は竹千代。初名は元信,元康。法号は安国院。諡号(しごう)は東照大権現(だいごんげん)。
【格言など】人の一生は,重き荷を負うて遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず(遺訓)

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朝日日本歴史人物事典の解説

徳川家康

没年:元和2.4.17(1616.6.1)
生年:天文11.12.26(1543.1.31)
武将。江戸幕府初代の将軍。三河国(愛知県東部)岡崎の城主松平広忠とお大(水野氏)の子。幼名は竹千代。松平氏は西三河の大名で,駿府(静岡市)の今川氏に従属していた。6歳で今川氏に人質として送られる途中,奪われて尾張(愛知県西部)の織田信秀のもとに送られたが,2年後に返還され,19歳までを駿府で過ごした。永禄3(1560)年の桶狭間の戦の前日,5月18日には,敵中に孤立した大高城に兵糧を入れることに成功して武名を挙げ,戦後に今川氏から独立して,翌年には織田信長と和睦した。同6年には,今川義元からもらった元康の名を,家康と改めた。同年に勃発した三河の一向一揆を,翌年には鎮圧し,次いで東三河を勢力圏に入れた。同9年に,松平を徳川と改姓し,源氏の名門である新田氏の一族得川氏の子孫と自称した。同11年から,甲斐(山梨県)の武田信玄と連絡をとって,今川氏を攻め,遠江(静岡県西部)に進出して,元亀1(1570)年には,浜松に本拠を移した。同年,織田信長に協力して,姉川の戦で浅井・朝倉両氏に勝ったが,同3年には,浜松の北方の三方ケ原で武田信玄の軍に敗れた。しかし信玄の没後,子の勝頼の軍を天正3(1575)年の長篠の戦で,信長と共に破り,同10年3月には,同じく信長のもとで武田氏をほろぼし,駿河国(静岡県中部)を領国に加えた。同年6月の本能寺の変に際しては,和泉国(大阪府)の堺から間道を経て帰国し,次いで信濃国(長野県)南部と甲斐国に出兵して,ここも領土とした。同12年には,羽柴(のち豊臣)秀吉と対立した織田信雄を援助して,尾張に出陣し,小牧・長久手の戦で勝利を得た。こののち秀吉と和睦し,また駿府に本拠を移したが,同18年に後北条氏がほろびると,秀吉の命により関東地方に移って,江戸を本拠と定めた。 豊臣政権下で最大の大名として,250万石を領し,やがて秀吉の没後,五大老の筆頭として勢力を伸ばし,ついに慶長5(1600)年の関ケ原の戦に勝って,武家政権の代表者となり,同8年には朝廷から征夷大将軍に任ぜられて,江戸に幕府を開いた。同10年に将軍職を子の秀忠に譲ったのちも,駿府にあって全国的な政務を統轄(大御所),対外的には,朱印船貿易を推進するとともに,長崎での交易を統制し,また同14年には朝鮮との国交を回復した。同19年と翌元和1(1615)年の大坂の陣によって豊臣氏をほろぼし,次いで武家諸法度と禁中並びに公家諸法度を制定して,幕府の基礎を固めた。駿府で病没。神式によって久能山に葬られたが,同3年に東照大権現の神号が勅許されて,日光の東照宮に改葬された。家康は正妻を早くに失い,15人の側室に10男5女を生ませた。幼少のころに不遇を経験したため,忍耐力に富み,また状況に対応する的確な判断力を備えて,諸大名の信望を集めた。狡猾な策謀家とみられたこともあるが,それは正しい評価ではなく,むしろすぐれた現実主義者であったといえよう。<参考文献>山路愛山『徳川家康』,中村孝也『家康伝』,同『徳川家康文書の研究』全4冊

(尾藤正英)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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江戸・東京人物辞典の解説

徳川家康

1542〜1616(天文11〜元和2)【初代将軍】江戸幕府を開いた初代将軍。 江戸を世界最大の城郭都市にする礎を築いた。初代将軍(在職1603〜05)。松平広忠の長男。幼い頃を織田信秀、今川義元の人質として過ごした。義元の死後、豊臣秀吉とともに織田信長と同盟し、徳川と改姓。1590年、小田原北条氏を攻めたあと、関東に転封。秀吉の死後、五大老の一人となった。1600年、関ヶ原の戦いに勝利、1603年征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開設。将軍職を二代秀忠に譲ったあとも大御所として実権を掌握した。大坂の陣で豊臣家を滅ぼした翌16年、駿府城で病死。

出典|財団法人まちみらい千代田
監修:江戸東京博物館 都市歴史研究室長 北原 進
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[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクションの解説

とくがわいえやす【徳川家康】

愛知の日本酒。酒名は、蔵元所在地の岡崎が徳川家康生誕の城下町であることにちなみ命名。大吟醸酒純米大吟醸酒。平成12~15、17~19、21、22、26年度全国新酒鑑評会で金賞受賞。原料米は山田錦。仕込み水南アルプス赤石山系の軟水。酒の熟成を家康の一生になぞらえ、しぼりたて生原酒のうす濁り酒を「生誕酒」、しぼりたて原酒を少年時代の「竹千代」、十分に熟成させた大吟醸酒を「徳川家康」として発売している。蔵元の「丸石醸造」は元禄3年(1690)創業。所在地は岡崎市中町。

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デジタル大辞泉プラスの解説

徳川家康

山岡荘八の長編歴史小説。1953年刊行。滝田栄主演のNHK大河ドラマ「徳川家康」(1983)の原作。

徳川家康

愛知県、丸石醸造株式会社の製造する日本酒。平成21、22酒造年度の全国新酒鑑評会で金賞を受賞。

徳川家康

1983年放映のNHK大河ドラマ。原作は、山岡荘八の同名小説。徳川家康の生涯を描く。脚本:小山内美江子。音楽:冨田勲。出演:滝田栄、役所広司武田鉄矢ほか。

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世界大百科事典 第2版の解説

とくがわいえやす【徳川家康】

1542‐1616(天文11‐元和2)
江戸幕府初代将軍。1542年12月26日,三河国岡崎城内で生まれる。幼名は竹千代。父は岡崎城主松平広忠,母は刈谷城主水野忠政の娘(於大の方(おだいのかた),法号伝通院(でんづういん))。広忠は駿河の大名今川義元の勢力下で尾張古渡(ふるわたり)城主織田信秀と対立していたが,その渦中で於大の方の兄水野信元が今川氏に背いて織田氏と結んだので,於大の方は3歳の竹千代を残して離別され,まもなく尾張阿古居城主久松俊勝に再嫁し,竹千代19歳のときまで会うことがなかった。

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大辞林 第三版の解説

とくがわいえやす【徳川家康】

1542~1616) 江戸幕府初代将軍(1603~1605)。三河岡崎城主松平広忠の長男。幼名竹千代,のち元信,元康,家康と改めた。はじめ今川義元,のち織田信長と結び東海に勢力を拡大,信長とともに甲斐武田氏を滅ぼす。豊臣秀吉の天下統一後はこれに協力,関八州を与えられ,1590年江戸入府。関ヶ原の戦勝を経て1603年征夷大将軍となり,江戸に開幕。将軍職を譲った後も大御所として実権を握り,大坂冬・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし,統一を完成した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

徳川家康
とくがわいえやす

[生]天文11(1542).12.26. 三河,岡崎
[没]元和2(1616).4.17. 駿府
江戸幕府初代将軍 (在職 1603~05) 。岡崎城主松平広忠の長男。母は水野右衛門大夫忠政の娘。幼名は竹千代,初名を元信,のち元康といった。院号は安国院。織田信秀,次いで今川義元の人質となったが,永禄3 (1560) 年義元が桶狭間の戦いで敗死すると,岡崎に帰り,織田信長とも親交を結び戦国大名として成長。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

徳川家康
とくがわいえやす
(1542―1616)

江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(みかわ)(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(するが)(静岡県)の大名今川(いまがわ)氏の人質となって苦労したが、桶狭間(おけはざま)の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した。本能寺の変ののちは、いち早く甲斐(かい)(山梨県)・信濃(しなの)(長野県)を手に入れ、羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣秀吉(とよとみひでよし))と戦って一歩も譲らず和睦(わぼく)。1590年(天正18)関東に移って250万石の大大名となり、秀吉の死後は関ヶ原の戦いに勝って天下の実権を握り、将軍となって江戸に幕府を開いた。三男秀忠(ひでただ)に将軍職を譲って駿府(すんぷ)(静岡市)に引退してからも大御所として実権を離さず、大坂の陣を起こして豊臣氏を滅ぼし、徳川氏政権265年間の基礎を固めた。死後は日光に祀(まつ)られて東照大権現(とうしょうだいごんげん)と崇(あが)められ江戸時代を通じて政治的権威の源泉となった。[高木昭作]

今川の人質時代

家康は、天文(てんぶん)11年12月26日、松平広忠(まつだいらひろただ)を父とし水野氏於大の方(おだいのかた)を母として三河岡崎城内で生まれた。幼名は竹千代(たけちよ)。名は元信(もとのぶ)、元康(もとやす)、のち家康。松平氏宗家は、三河加茂(かも)郡の松平郷の土豪で15世紀の後半に矢作(やはぎ)川の下流域に一族庶流を進出させた。16世紀初めには広忠の父清康(きよやす)が岡崎城主となって加茂・額田(ぬかた)・碧海(あおみ)・幡豆(はず)の西三河4郡に勢力を振るったが、内訌(ないこう)から清康が暗殺されて以来衰え、広忠のころは隣国の今川氏の庇護(ひご)下に置かれていた。ところが於大の方の兄の刈谷(かりや)城主水野信元(のぶもと)が今川氏に背いて尾張(おわり)(愛知県西部)の織田信秀(のぶひで)に通じたので、広忠は於大の方を離別し、竹千代は3歳で母と別れることとなった。6歳のとき人質として今川氏の駿府に送られる途中、織田方に捕らわれ安祥(あんじょう)城(安城市)で2年間を過ごした。8歳のとき人質交換で今川氏に取り返され、19歳までを「三河の小せがれ」とよばれながら駿府で過ごすが、安倍(あべ)川の印地打(いんじうち)(石合戦)を見て勝負を予言し将来の片鱗(へんりん)をみせたのはこの間のエピソードである。14歳のとき元服し今川義元の一字を与えられて元信と名のり、16歳で今川氏一門の女(むすめ)(築山殿(つきやまどの))と婚姻。翌1558年(永禄1)初陣。このころに元康と改名。翌々年上洛(じょうらく)のため西上を開始した義元の命令で、織田方に包囲された大高(おおたか)城に兵粮(ひょうろう)を搬入。世にいう大高城兵粮入れである。直後の桶狭間の戦いでの義元の頓死(とんし)により、今川氏から独立した元康は西三河の支配を回復し、信長と同盟した。[高木昭作]

信長と結び信玄を防ぐ

1563年(永禄6)、子の信康(のぶやす)と信長の女(むすめ)との婚約を成立させた元康は家康と改名、今川氏との絶縁を天下に宣言した。この年に発生した三河一向一揆(いっこういっき)は、家康主従をも分裂させる深刻なものであったが翌年には鎮圧。かえって家臣の把握を強固にした家康は東三河をも制圧し三河一国の大名となり、1566年勅許を得て徳川と改姓し従(じゅ)五位下三河守(かみ)に叙任された。そのころは信長と同盟関係にあった武田信玄が今川氏の領国駿河に侵入したのを機に、1568年家康は遠江を占領、1570年(元亀1)遠江引馬(ひくま)(浜松)城に移って本拠とした。同年の近江(おうみ)(滋賀県)姉川(あねがわ)の戦いに信長を助けて出陣したが、このころには信長・家康ともに信玄との同盟を解消し、家康は信長のために身をもって武田の西上を防ぐ役割を担い、大きな犠牲を払わされた。1572年の三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで信玄に惨敗し、1575年(天正3)の長篠(ながしの)の戦いで信玄の子勝頼(かつより)と戦って勝利し、さらに1579年信長の命により築山殿との間にもうけた長子信康を自殺させ築山殿を処刑したことなどがその主要なものである。1582年信長の武田氏攻略作戦では駿河方面を分担させられ、同氏滅亡後に恩賞として駿河一国を与えられた。2か月後の本能寺の変のとき、わずかの供回りで堺(さかい)に滞在中であった家康は、信長の死で治安の乱れた近畿地方を横断して伊勢白子(いせしろこ)(三重県鈴鹿(すずか)市)に急行し海路岡崎城に帰った。この帰路の家康を守ったのが伊賀(三重県)の土豪たちで、後年服部半蔵(はっとりはんぞう)など伊賀者が幕府に取り立てられたのは、このときの功によるとされている。帰国した家康は、信長死後空白地帯となった甲斐・信濃に出陣し、年内にはこの2か国を手中にした。
 こうして駿・遠・三・甲・信5か国を領有した家康は、信長の遺子信雄(のぶかつ)を助けて、中央で頭角を現した羽柴秀吉と対抗し、1584年小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いで秀吉軍を破ったが、半年後に和議が成立。家康の次男於義丸(おぎまる)(秀康(ひでやす))が秀吉の養子となり、1586年秀吉の妹朝日(あさひ)姫が家康の正室となって浜松に行き、また秀吉生母の大政所(おおまんどころ)が人質として岡崎に下向した。なお大政所は、家康が大坂城で前年に関白となった秀吉に謁して帰国したのを機に、岡崎滞在1月足らずで大坂に帰され、朝日姫は1590年京都聚楽第(じゅらくだい)で没している。以後の家康は、秀吉政権下の一大名として行動し、1589年に7か条の定書(さだめがき)を領内の村々に公布して年貢や夫役(ぶやく)について規定し、また翌年にかけて5か国に太閤検地(たいこうけんち)を行うなど秀吉の方針に沿って民政を整備した。[高木昭作]

五大老の筆頭として

1590年(天正18)秀吉の小田原征伐に先鋒(せんぽう)として参陣した家康は、北条氏滅亡後の関東で250万石を与えられ、8月1日(朔日(さくじつ))江戸城に入った。これ以来「八朔(はっさく)」は家康江戸打入(うちいり)の特別の記念日となった。翌年には九戸政実(くのへまさざね)の乱鎮定のため陸奥(むつ)岩手沢(宮城県大崎(おおさき)市)に出陣。翌1592年(文禄1)の文禄(ぶんろく)の役では、渡海はしなかったが肥前名護屋(なごや)(佐賀県唐津(からつ)市)に駐留、1年半にわたって江戸を留守にした。秀吉の渡鮮を諫止(かんし)するなど、朝鮮出兵そのものには慎重論者だったようである。1595年、家康・毛利輝元(もうりてるもと)・前田利家(まえだとしいえ)など5人の大大名の連名で、大名間の私婚、徒党の禁止などに関する秀吉の意向を記した文書2通が諸大名に通達された。後の五大老の原型であるが、家康はその筆頭であった。このころから伏見(ふしみ)に常駐に近い状態となり、翌1596年(慶長1)正二位内大臣。1598年8月秀吉は遺児秀頼(ひでより)と天下の政事を五大老と五奉行(ごぶぎょう)に託して死んだが、その筆頭の家康の最初の課題は、朝鮮人民の抵抗ですでに泥沼に落ち込んでいた慶長(けいちょう)の役を終わらせることにあり、それは動員された諸大名や人民の願いでもあった。秀吉の死を秘して撤退作戦を年内にほぼ完了させた家康は、武士と人民を戦争に動員することで体制の維持強化を図った五奉行の一人石田三成(いしだみつなり)に反対する諸大名の結集の中心となった。
 1600年の「天下分け目」といわれた関ヶ原の戦いは秀吉の跡目争い、秀頼に対する心情、大名間の感情的軋轢(あつれき)などが絡み合って起きたものであるが、実は戦いによって問われたのは、秀吉時代の絶え間ない戦争への動員路線を続けるのかどうか、という問題であり、この意味で、勝敗は戦いの前からすでについていたのであった。この戦いに勝利した家康は翌年2月ころまでに所領の没収、減封(げんぽう)・加封(かほう)を伴う諸大名の全国的な大移動を断行した。譜代(ふだい)と外様(とざま)を巧みに組み合わせる江戸時代の大名配置の原型はこのときにできあがり、これによって、戦争を起こすことなく軍事的緊張を維持し、体制を強固にすることが可能となった。以後、諸大名の余分なエネルギーは普請役(ふしんやく)への動員によって吸収されるが、その最初は1602年の京都二条城の造営であった。しかし、このころの家康の政治上の立場は、当時のある史料が「内府(だいふ)(家康)公、世間を後見」と述べているように、亡き秀吉に依託された五大老の筆頭という限界にとどまっていた。[高木昭作]

征夷大将軍として

1603年(慶長8)2月12日、家康は伏見城で任将軍の宣旨(せんじ)を受け、全国の武家を指揮統轄する源頼朝(みなもとのよりとも)以来の伝統的な権限を手中にした。3月に始められた江戸市街地造成を手始めに家光(いえみつ)のころまで続いた間断ない普請役への諸大名の動員は、この権限に基づいている。また諸大名が江戸に屋敷を構え参勤して登城し、将軍に拝謁することを強要したが、これは将軍への服属を形に表す意味をもつ重大な行為であった。さらに翌々年、秀吉に倣って国絵図と御前帳(ごぜんちょう)(検地帳)の提出を諸大名に命じたことは、将軍への服従が単に私的な主従関係によるのではなく、国家的な義務であることを明確にする意味をもっていた。[高木昭作]

大御所として

同じ1605年(慶長10)家康は将軍職を秀忠(ひでただ)に譲って大御所となり、2年後に駿府城に引退した。秀忠に将軍としての権威をつけさせ、家康死亡時に予想される御家騒動を未然に防止する意図によったと考えられる。家康の側近には武士だけでなく、林羅山(はやしらざん)、金地院崇伝(こんちいんすうでん)(以心崇伝)、中井正清、茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)、アダムズ(三浦按針(みうらあんじん))などの学者、僧侶(そうりょ)、大工頭梁(とうりょう)、商人などさまざまの分野の人物が集まっており、家康は彼らを顧問として政策を決定し、事柄によっては彼らを取次ぎとして意思伝達にあたらせていた。これらの側近の第一人者が本多正信(ほんだまさのぶ)・正純(まさずみ)父子であったが、大御所家康は子の正純を駿府に、父の正信を江戸の秀忠側近に置き、重要な決定はこの2人を通じて秀忠に伝えられ、施行される枠組みをつくった。1614、1615年(慶長19、元和1)の大坂冬・夏の陣も家康の意思で起こされ、秀忠以下の全大名が家康の統率のもとに参陣した。大坂の陣の原因としてよく知られている方広寺(ほうこうじ)の鐘銘事件(しょうめいじけん)は単なるきっかけにすぎず、真の原因は、江戸への参勤を拒否するなど、関ヶ原の戦い後一大名の地位に落とされた豊臣秀頼が幕府への服従を拒否した点にあった。[高木昭作]

東照大権現として

大坂の陣で豊臣氏を滅ぼした家康は引き続いて京都にとどまり「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」(禁中并公家中諸法度)「武家諸法度(ぶけしょはっと)」を制定したのち駿府に帰り、元和(げんな)2年4月17日、75歳で没した。法号安国院。久能山(くのうざん)に葬り、のち日光山に改葬。死の直前に太政大臣(だいじょうだいじん)に任じられている。これらの法度は、公家、僧侶、学者などに内外の古典を収集・調査させ、家康自身も彼らから講義を受けて成文化したもので、日本古来の、とくに頼朝(よりとも)以来の武家政権の伝統のうえに、幕藩体制を位置づけることを主眼としており、天皇も皇室に伝わる宗教的・儀式的知識を身につけて国家を安泰にする役割を要請されている。後世、享保(きょうほう)の改革に際して8代将軍吉宗(よしむね)が「権現様の時代を再現する」と唱えたように、死後に天皇から「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」の神号を勅授され日光東照社(宮号宣下は1645年)に祀(まつ)られた家康が、江戸時代を通じて政治的源泉となりえたのも、この「法度」に示された天皇の性格に起因している。反面、この点に江戸幕府のアキレス腱(けん)があり、朝幕問題が幕府崩壊の原因となったのはやむをえないところであった。[高木昭作]
『山路愛山著『徳川家康』(1915・独立評論社) ▽中村孝也著『徳川家康公伝』(1965・東照宮社務所) ▽北島正元著『徳川家康』(中公文庫)』

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世界大百科事典内の徳川家康の言及

【江戸時代】より

…安土桃山時代に続く時代。徳川家康が征夷大将軍になった1603年(慶長8)から,15代将軍徳川慶喜が大政を奉還して将軍を辞した1867年(慶応3)までの265年間を指す。この間,権力の中枢である幕府が江戸に置かれたのでこの呼称があるが,徳川氏が権力を握っていたので徳川時代ともいう。…

【江戸城】より

…1486年(文明18)道灌が上杉定正に謀殺されたあと,江戸城は上杉氏のものとなり,1524年(大永4)上杉朝興が北条氏綱に敗れたあとは後北条氏の領する支城の一つとなった。さらに90年(天正18)豊臣秀吉が関東に進攻するとその手に落ち,戦後には関東に移封された徳川家康の居城となった。 家康入城当時の江戸城は,さびれた田舎城にすぎなかったが,やがて家康は平川下流の湿地や江戸湾の埋立て工事をともなう城下町建設をも並行させながら,江戸城の近世城郭化を図った。…

【江戸幕府】より

…徳川家康が1603年(慶長8)2月12日征夷大将軍に任命されて江戸に開いた幕府。以後,1867年(慶応3)10月15日15代将軍徳川慶喜の大政奉還までの265年の間,対内的には全国を統治し,対外的には日本を代表する政府として機能した。…

【大御所政治】より

…前将軍が隠退後も在職中と同様の実権をもち,政治をとりつづけること。鎌倉時代初めは将軍の父の屋敷を大御所と呼んだが,やがて将軍の父その人,あるいは前将軍をも大御所と呼ぶようになった。大御所政治という言葉は,この点に着目して後世の史家が特定の大御所のそれについてつけた呼び名である。室町幕府3代将軍足利義満は将軍を義持に譲って京都北山の新邸に移ったのち,出家して官職に拘束されない自由な立場から実権を振るったが,これを大御所政治と呼ぶ史家は少ないようである。…

【大坂の陣】より

…1614年(慶長19)の冬の陣と,翌年(元和1)の夏の陣とに分かれる。
[原因]
 1598年,豊臣秀吉は当時6歳の秀頼を五大老の筆頭徳川家康以下の有力諸大名に託して死んだが,その2年後の関ヶ原の戦で天下の実権を掌握した家康は,1603年には征夷大将軍となり,全国の大名を軍事的に指揮する伝統的な権限を手中にした。この権限にもとづいて家康は諸大名に築城などの御手伝普請を賦課するとともに,京都の二条城,江戸,駿府などへの参勤と証人(人質)の呈出とを強制した。…

【慶長版】より

…日本において,慶長年間(1596‐1615)に開版された出版物の総称。(1)1597年の《錦繡(きんしゆう)段》《勧学文》に始まり,99年の《日本書紀神代巻》《古文孝経》などを経て1603年の《白氏五妃曲》にいたる後陽成天皇の勅版,(2)1599年の《孔子家語》《六韜(りくとう)》《三略》に始まり,1600年の《貞観政要》その他を経て06年の《七書》にいたる徳川家康の伏見版,(3)徳川家康が駿府(すんぷ)に引退してから金地院崇伝,林道春に命じて開版させた15年の《大蔵一覧集》(いわゆる駿河版)のほか,(4)1605年富春堂五十川了庵が刊行した《太平記》その他がこれに属する。勅版や伏見版は大形の木活字本(古活字版)であるが,駿河版は銅活字を用いた。…

【権現】より

…室町期に興った吉田神道は神本仏迹説をとき,神道を仏教よりすぐれたものとしたたてまえ上,権現より明神号を尊び,地方の神社に対し大明神授与を行い,豊臣秀吉が死後まつられるにあたっては吉田神道に従って豊国大明神の号が贈られた。しかるに徳川家康の場合,明神号をもって吉田の唯一宗源神道による祭祀を主張した崇伝に対し,江戸上野の寛永寺天海は家康が生存中天台の山王一実神道を授けられ死後この神道の流儀でまつられるよう遺言したと称し,また明神号は豊国社没落の不吉の例ありとして権現号をもって山王一実神道の祭りを強引に推進し,ついに1617年(元和3)家康は東照大権現の神号に決定された。1868年(明治1)神仏分離が政府から通達されて全国各地の社の権現号は廃止された。…

【鎖国】より

…96年土佐に漂着したイスパニア船サン・フェリペ号の船員がキリシタン伝道は国土侵略の手段と語った事件を契機に,それまで必ずしも厳格に励行されなかった禁教が強化され,長崎において26名の信徒・宣教師(二十六聖人)が処刑された。
[禁教と貿易統制の結合]
 徳川家康が関ヶ原の覇権を手にした1600年は,日本布教が全修道会に開放され,イエズス会による日本布教の独占が破れ,またオランダ船リーフデ号の豊後漂着を機に,プロテスタント国のオランダ,イギリスが日本に進出した年でもある。家康はW.アダムズらによって世界情勢についての新しい知識を得るとともに,秀吉の強硬外交に代わり,和親通交の方針によってヨーロッパと東アジアの諸国に対した。…

【鐘銘事件】より

…1614年(慶長19)再建された京都方広寺大仏殿の釣鐘の銘に徳川家康が難くせをつけ,豊臣秀頼を開戦に追いこんだといわれる事件。秀吉が創建し,1596年の大地震で崩壊した方広寺の再建は徳川・豊臣両氏の共同事業であったが,鐘銘に〈国家安康〉の文字があったのを〈家康〉を胴切りにするものと難くせをつけた家康は,これを機会に秀頼の徳川氏への臣従化を迫った。…

【関ヶ原の戦】より

…1600年(慶長5)9月,徳川家康の率いる東軍と石田三成の率いる西軍が美濃関ヶ原で行った合戦。全国のほとんどの大名がまき込まれたこの合戦に勝ったことで,家康は事実上全国の支配者となり,さらに3年後に征夷大将軍となったので,〈天下分け目の戦〉ともいわれる。…

【朝野旧聞裒藁】より

…遠祖から家康死去にいたる徳川氏創業の史料集成。1093巻。江戸幕府の官撰で大学頭林述斎の監修。1819年(文政2)に着手,41年(天保12)に完成。中世末期から近世初頭にいたる徳川氏発展関係史料を編年体に集録。項目ごとに関連史料の原文をのせ,典拠を示す実証的な編集となっている。以前,広忠までの42巻が1冊として出版されたが,現在,史籍研究会から刊行中。【煎本 増夫】…

【築山殿】より

…徳川家康の室。今川氏の一族関口義広(一説に親永)の女で今川義元の姪。…

【東照宮】より

…徳川家康をまつる神社。1616年(元和2)家康が駿府で没すると,遺言に基づきいったん駿河久能山に葬り,翌年下野日光山に遷葬,朝廷から東照大権現の神号が授けられた(日光東照宮)。…

【図書館】より

…初代の庠主(しようしゆ)(校長)快元は易学の大家で,教育内容は儒学中心であったが,とりわけ周易を重んじ,部将たちに卜筮(ぼくぜい)をもって仕える者を養成したといわれる。後年徳川家康に仕える天海もここで修学している。蔵書は1725年の目録によると国書125冊に対し,漢籍2056冊,仏典714冊と記されている。…

【長篠の戦】より

…1575年(天正3)5月21日に織田信長,徳川家康の連合軍が武田勝頼の軍を三河の設楽原(したらがはら)(現,愛知県新城市)で破った合戦。武田信玄の没後,家康が長篠城を取り返したので,勝頼は前年に遠江高天神(たかてんじん)城を陥れた勢いに乗り,75年4月21日約1万(兵員数には諸説がある)の軍勢で長篠城を囲んだ。…

【日光東照宮】より

…栃木県日光市山内にある徳川家康をまつる神社。1616年(元和2)4月17日家康が駿府城で没すると,遺言に基づき,幕府はその夜神式をもって駿河久能山に葬り,墓前に社殿を建てた。…

【武家諸法度】より

…天皇,公家に対する禁中並公家諸法度,寺家に対する諸宗本山本寺諸法度(寺院法度)と並んで,幕府による支配身分統制の基本法であった。1615年(元和1)大坂落城後,徳川家康は以心崇伝らに命じて法度草案を作らせ,検討ののち7月7日将軍秀忠のいた伏見城に諸大名を集め,崇伝に朗読させ公布した。漢文体で13ヵ条より成り,〈文武弓馬の道もっぱら相嗜むべき事〉をはじめとして,品行を正し,科人(とがにん)を隠さず,反逆・殺害人の追放,他国者の禁止,居城修理の申告を求め,私婚禁止,朝廷への参勤作法,衣服と乗輿(じようよ)の制,倹約,国主(こくしゆ)の人選について規定し,各条に注釈を付している。…

【伏見版】より

…徳川家康が閑室元佶(かんしつげんきつ)に命じて開版させた古活字版。足利学校第9代庠主(しようしゆ)(校長)であった元佶は,家康の信任が厚く,家康から拝領した木活字で1599年(慶長4),《孔子家語》《六韜(りくとう)》《三略》を京都伏見において開版した。…

【武徳編年集成】より

…徳川家康一代の伝記を編年体で記した歴史書。93巻。…

【松平氏】より

…大給,形原,竹谷らの松平一族と上層家臣は今川直臣とされ,本領安堵のうえ駿府に出仕するなど,松平家臣団の今川家臣化が進められた。49年11月広忠の嗣子竹千代(徳川家康)は駿府へ送られて,義元の庇護下におかれた。三河一国は今川領国と化し,検地などの戦国大名今川氏の諸施策が行われ,支配体制の改編が進行した。…

【三方原の戦】より

…1572年(元亀3)12月22日に遠江国三方原(現,浜松市)で武田信玄が徳川家康を破った合戦。西上を意図した信玄は10月3日に甲府を出発,10日には青崩(あおくずれ)峠を越えて遠江に入り,一言坂で家康の軍を破った。…

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