…熊野権現が紀州熊野に鎮座し,世に知られるようになったいきさつを書いた縁起記。完本は伝わらないが,《長寛勘文》や《証菩提山等縁起》《熊野山略記》などに引用されており,その内容が知られる。…
…神社としては,《延喜式》神名帳に,熊野坐神社と熊野早玉神社とが掲げられ,前者がのちの本宮,後者がのちの新宮である。平安末期の《熊野権現御垂迹縁起》(《長寛勘文》所引)に〈結(むすぶ)早玉家津美御子と申し,二宇の社也〉とあり,同時期の《梁塵秘抄》には,〈紀の国や牟婁の郡(こおり)におはします,熊野両所は結ぶはやたま〉とあって,結(夫須美も同じ)と早玉(速玉も同じ)とが一社に併祀されていたようである。 本宮は〈家津御子(けつみこ)〉または〈家津美御子〉の神号も有したが,これは〈木つ御子〉の義で,材木の産出が重視されたための称である。…
…当時の園城(おんじよう)寺には修験を行ずる僧が続出し,熊野三山や大峰山,金峰山(きんぷせん),葛城山などに抖擻(とそう),参籠修行したが,その先駆者であった増誉(ぞうよ)が1090年(寛治4)白河上皇初回の熊野詣先達を務め,その功績によって初代熊野三山検校に補せられた。増誉は洛東に聖護院を建て,熊野権現を勧請して修験道の鎮守としたが,その後を継いだ行尊,覚宗,覚讃なども上皇,女院,公卿の熊野詣の先達を務め,同様熊野三山検校に補せられ,さらに覚讃以後は洛東新熊野社(いまくまのしや)の検校をも兼ねることになり,園城寺修験は修験道界に確固たる地位を築いた。入峰儀式をしだいに整え,熊野,大峰を修行する諸国修験をその傘下に取り入れ,天台系本山派修験教団を形成していった。…
※「熊野権現」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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