肥田瀬庄(読み)ひだせのしよう

日本歴史地名大系 「肥田瀬庄」の解説

肥田瀬庄
ひだせのしよう

鎌倉後期より加茂郡に所在した庄園。庄域は津保つぼ川右岸の現関市肥田瀬付近に比定される。飛騨瀬とも記す。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録(京都大学蔵古文書集)に「飛騨瀬庄」とみえ、亀山法皇が皇女昭慶門院に譲与した所領の一つであったことがわかる。西園寺実兼が知行しており、亀山院のとき拝領したという。建武二年(一三三五)七月一二日には西園寺公重に当庄などの所領が安堵されている(「後醍醐天皇綸旨」同古文書纂)。応永二九年(一四二二)の足利義持袖判御教書(徳川黎明会蔵)によれば、「肥田瀬郷地頭職」などが土岐肥田瀬三郎持康に安堵されており、美濃源氏の山県氏系図では源頼綱の四代の孫国成が肥田瀬太郎を名乗っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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