日本大百科全書(ニッポニカ) 「下曽禰金三郎」の意味・わかりやすい解説
下曽禰金三郎
しもそねきんざぶろう
(1806―?)
下曽根とも書く。幕末の西洋砲術家。名は信敦(のぶあつ)、のち信之(のぶゆき)。桂園(けいえん)と号した。筒井伊賀守政憲(つついいがのかみまさのり)の二男で、旗本下曽禰家(900石)の婿養子となる。洋学に興味をもち、渡辺崋山(かざん)らの蛮社に加わって、1841年(天保12)武州徳丸原(とくまるがはら)における高島秋帆(しゅうはん)の洋式訓練に、幕府の鉄砲方として参加、その直後に秋帆の門に入り、高島流の皆伝免許を受けた。芝・赤羽橋に調練場を設け、銃隊訓練、大砲操術などを教授した。54年(安政1)講武所の開設にあたって砲術師範役、さらに歩兵奉行兼となり、66年(慶応2)軍制改革の意見書を提出し、オランダ式からイギリス式への転換に参与し、陸軍所修行人教授方頭取(とうどり)に任ぜられた。
[渡邉一郎]