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渡辺崋山 わたなべ かざん

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美術人名辞典の解説

渡辺崋山

江戸後期の画家・思想家・三河田原藩士。江戸生。名は定静、通称は登、字は伯登・子安、のち崋山、号に寓画堂・全楽堂等。家老として藩務に精励する傍ら蘭学に親しみ、高野長英小関三英らと尚歯会を結成。画は白川芝山・谷文晁に学び、種々の画法を研究しながら風俗写生に才をみせ、洋画描法をも摂取して特に肖像画に洞察の深さと筆鋒の鋭さを発揮した。蛮社の獄に連坐した蟄居中、天保12年(1841)歿、49才。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

渡辺崋山

1793~1841。武士、画家、経世家。10代から絵を描いて家計を助けた。報民倉(備蓄米倉庫)整備や藩校成章館(成章高校の前身)復興など藩政改革に努めた。幕府の海防策を批判する「慎機論」「西洋事情書」の草稿を入手した幕府守旧派に「蛮社の獄」を仕組まれ郷国幽閉に。西洋の陰影技法をとりいれた肖像画「鷹見泉石像」(国宝)が有名。

(2017-02-22 朝日新聞 朝刊 三重全県・地域総合)

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デジタル大辞泉の解説

わたなべ‐かざん〔‐クワザン〕【渡辺崋山】

[1793~1841]江戸後期の蘭学者・画家。名は定静(さだやす)。通称、登。別号、寓絵堂(ぐうかいどう)。三河田原藩の家老で、海防掛を兼ねた。佐藤一斎に儒学を、谷文晁(たにぶんちょう)南画を学び、のち西洋画の技法を取り入れて写実的画風を確立。特に肖像画にすぐれた。「慎機論」を著し、幕政を批判したため蛮社の獄に連座して自刃。

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百科事典マイペディアの解説

渡辺崋山【わたなべかざん】

江戸後期の洋学者,画家。三河田原藩家老。名は定静,字は伯登・子安,通称は登。初め華山のち崋山と号した。儒学を佐藤一斎松崎慊堂(こうどう)に,絵を谷文晁らに学ぶ。
→関連項目大蔵永常小関三英佐久間象山鷹見泉石立原杏所田原[町]椿椿山モリソン号事件蘭学

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

渡辺崋山 わたなべ-かざん

1793-1841 江戸時代後期の画家,蘭学者。
寛政5年9月16日生まれ。渡辺巴洲(はしゅう)の長男。三河(愛知県)田原藩家老。画は谷文晁(ぶんちょう)門。西洋画法をとりいれた独自の画風を完成,「鷹見泉石像」(国宝)などをのこす。佐藤一斎,松崎慊堂(こうどう)らに儒学をまなび,蘭学をおさめて高野長英,小関三英らと尚歯会にくわわる。「慎機論」をあらわして幕府の鎖国政策を批判し,天保(てんぽう)10年蛮社の獄で捕らえられた。田原に蟄居(ちっきょ)中の天保12年10月11日自刃(じじん)。49歳。名は定静(さだやす)。字は伯登,子安。通称は登(のぼり)。別号に寓絵堂,全楽堂など。
【格言など】眼前の繰廻しに百年の計を忘る勿(なか)れ(「八勿(はちぶつ)訓」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

渡辺崋山

没年:天保12.10.11(1841.11.23)
生年:寛政5.9.16(1793.10.20)
江戸後期の武士,画家,経世家。名は定静,通称登,字は伯登,子安,号は寓絵堂,全楽堂など。父三河国田原藩士渡辺市郎兵衛定通,母栄の長男として江戸半蔵門外(千代田区の三宅坂)田原藩上屋敷裏門脇長屋に生まれる。少年時代から家計の窮迫を救うため得意の画筆で内職に努め,文化6(1809)年花鳥画家金子金陵 に入門,次いで谷文晁 に師事。同8年佐藤一斎に入門して儒学を学ぶ。文政7(1824)年父の死によって家督相続。若いころから代々の藩主の身辺に仕えたが,同11年以後は世嗣からはずされた三宅友信の側近を兼ねながら,天保3(1832)年の年寄役兼海防事務掛,同7年の江戸留守居役にいたるまで,1万2000石の小藩の藩務とその改革に尽力した。 その間種々の画法を研究しながら「一掃百態」(1818)などの風俗写生に才をみせ,洋風画法をも摂取して特に佐藤一斎,松崎慊堂,鷹見泉石,市河米庵などの学者,武士の肖像画に洞察の深さと筆鋒の鋭さを発揮した。文政8年の鹿島,銚子への旅の写生集『四州真景図巻』,天保2年の厚木旅行の『游相日記』,また桐生行きの『毛武游記』,天保4年に海防掛として田原領内から神島をめぐった折の『参海雑志』など写生入りの旅日記の類も,武人画家崋山の民衆生活への観察と共感のこまやかさを伝えて比類ない。洋風画研究は天保年間に入ると洋学研究へと進み,天保のなかばごろシーボルト門下の小関三英,高野長英らと尚歯会に加わり,蘭書によって西洋の地歴と海外情勢を探索。同9年蘭館長ニーマンとの問答を「鴃舌或問」にまとめ,前年の米船モリソン号打ち払いの事件に刺激されて日本の危機を告発する「慎機論」を執筆。翌10年5月目付鳥居耀蔵の讒訴により幕政誹謗のかどで入牢(蛮社の獄),11年田原に蟄居を命ぜられ,「黄梁一炊図」『虫魚帖』などの画作に心事を託して翌年10月11日夜自刃した。<著作>『崋山・長英論集』(佐藤昌介校注,岩波文庫)<参考文献>菅沼貞三『崋山の研究』,芳賀徹『渡辺崋山―優しい旅びと』

(芳賀徹)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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江戸・東京人物辞典の解説

渡辺崋山

1793〜1841(寛政5年〜天保12年)【蘭学者】優れた画家であり、蘭学者、また施政者。 蛮社の獄で無念の最後。蘭学者。画家。三河の田原藩家老。江戸生まれで、画を谷文晁に師事するが、後に西洋画に取り組んだ。西洋画を通して蘭学へも興味を持つようになり、小関三英・高野長英・江川英龍らと交流を持った。藩の家老としては、天保の飢饉の際、食料対策に「報民倉」を設け餓死者を一人も出さなかったなど、施政者としても有能な面を見せている。蘭学をはばかる幕府により田原藩での蟄居を命じられ、2年後自刃(蛮社の獄)。

出典|財団法人まちみらい千代田
監修:江戸東京博物館 都市歴史研究室長 北原 進
(C) 財団法人まちみらい千代田
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世界大百科事典 第2版の解説

わたなべかざん【渡辺崋山】

1793‐1841(寛政5‐天保12)
江戸末期の田原藩士。画家,蘭学者。名は定静,字は伯登,通称は登,崋山は号。三河国田原藩の定府の家臣渡辺定通の子。田原藩は1万2000石の小藩のうえ,父が病身のため極貧のうちに育った。家計を助けるために画業を志し,谷文晁の門人,白川芝山,金子金陵らに学び,文晁に画才を認められた。初期の作品には文晁や沈南蘋(しんなんぴん)などの影響が見られるが,のち西洋画の技法を学んで遠近法,陰影法をとり入れた作品を描き,従来の文人画から脱皮した独自な画風を確立した。

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大辞林 第三版の解説

わたなべかざん【渡辺崋山】

1793~1841) 江戸後期の洋学者・南画家。三河国田原藩の家老。名は定静さだやす、通称は登、崋山は号。儒学を佐藤一斎・松崎慊堂に、南画を金子金陵(?~1817)・谷文晁に学んだ。さらに西洋画の技法を研究し、肖像画など写生画にすぐれた。また、藩の海防掛に任じたことから蘭学にも通じ、高野長英・小関三英らと交わり尚歯会の一員となる。幕府の対外政策を批判した「慎機論」を著し、蛮社の獄に連座、国元に蟄居中に自殺。作「一掃百態」「鷹見泉石像」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

渡辺崋山
わたなべかざん

[生]寛政5(1793).9.16. 江戸
[没]天保12(1841).10.11. 三河
江戸時代末期の蘭学者,画家。名は定静 (さだやす) ,字は伯登,子安。通称は登,号は華山のち崋山,寓絵堂,全楽堂など。田原藩の藩士の子として生まれ,8歳で出仕,貧困とたたかいながら儒学や絵画を学んだ。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

渡辺崋山
わたなべかざん
(1793―1841)

江戸末期の蘭学(らんがく)者、画家。諱(いみな)は定静(さだやす)、通称は登。字(あざな)は伯登または子安。華山のち崋山と号し、寓絵堂(ぐうかいどう)、全楽堂の堂号を用いた。三河国(愛知県)田原(たはら)藩士定通(さだみち)の長子として、江戸の藩邸内で生まれる。初め藩儒鷹見星皐(たかみせいこう)(1751―1811)に儒学を学んだが、のち佐藤一斎(さとういっさい)に師事し、ついで松崎慊堂(まつざきこうどう)に学んだ。幼少から貧困に苦しみ、生計のために画を修業した。1824年(文政7)父の死によりその家督を継ぐ。1832年(天保3)年寄役末席(家老)となり、藩務にあたり、殖産興業に努めるとともに、海防掛も担当した。このころ崋山は高野長英(たかのちょうえい)、小関三英(こせきさんえい)らの蘭学者と交わり、尚歯(しょうし)会を組織して西洋事情を研究し、古河(こが)藩家老鷹見泉石(たかみせんせき)をはじめ広く交際をもって、開明的政策を行った。1837年、日本漂流民を伴い対日通商を目的として浦賀に来航したアメリカ船モリソン号が、異国船打払令によって撃退される事件(モリソン号事件)が起こり、これに対し、崋山は1839年『慎機論(しんきろん)』を著し、長英らとともに、いたずらに世界情勢に目を覆い、人道に背く幕府の鎖国政策を批判した。このため同年5月蛮社の獄によって捕らえられ、12月、国元の田原に蟄居(ちっきょ)を命じられた。1841年、崋山の窮迫を助けるため、弟子たちが江戸において開いた画会が、蟄居中不謹慎(ふきんしん)と誤り伝えられるに及び、崋山は藩主に累の及ぶのを恐れて自殺した。著作には、ほかに『鴃舌或問(げきぜつわくもん)』(1838成立)などがある。[片桐一男]
 崋山は幼少より絵に親しみ、初め平山文鏡に手ほどきを受けたが、生計のためもあって本格的に画家を志し、16歳のとき白川芝山(しらかわしざん)(生没年不詳)につく。のち金子金陵(かねこきんりょう)(?―1817)、ついで谷文晁(たにぶんちょう)に入門。初め沈南蘋(しんなんぴん)風の花鳥画を描いたが、26歳の作品『一掃百態(いっそうひゃくたい)図』では闊達(かったつ)な筆で庶民の日常のさまざまな姿態を生き生きと描き分け、独自の作風をみせている。一方、洋学への興味が西洋画への傾斜となり、29歳ごろより伝統的手法による衣服表現に加えて西洋画の遠近法や陰影をよく消化した立体感ある顔貌(がんぼう)表現で独自の肖像画を完成した。『鷹見泉石像』(国宝、東京国立博物館)、『市河米庵(いちかわべいあん)像』などのほか、その下絵にも傑作を残している。また写生帳『客坐掌記(かくざしょうき)』は、動きのある対象を的確に描写する筆致が生彩を放ち、本絵に欠落しがちな自由さと柔軟さにあふれている。ほかに『四州真景図巻(ししゅうしんけいずかん)』『千山万水(せんざんばんすい)図』『校書(こうしょ)図』『于公高門(うこうこうもん)図』『黄粱一炊(こうりょういっすい)図』などがあるが、崋山の画はいずれも武士としての生き方との相克のなかで、ときに自由に、ときに意志的にその描線の性格を変えつつ展開している。弟子に椿椿山(つばきちんざん)、岡本秋暉(おかもとしゅうき)(1807―1862)がいる。[星野 鈴]
『鈴木清節編『崋山全集』(1910~1915・崋山会/1941・崋山叢書出版会)  ▽蔵原惟人解説『渡辺崋山 一掃百態』(1969・岩崎美術社) ▽『日本美術絵画全集24 渡辺崋山』(1977/普及版・1980・集英社) ▽吉澤忠著『渡辺崋山』(1956・東京大学出版会) ▽森銑三著『渡辺崋山』(1961・東京創元社/中公文庫)』

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世界大百科事典内の渡辺崋山の言及

【大蔵永常】より

…1825年(文政8)江戸に移ってのちは,農書の著述に専念し,合理的農業技術,とくに特用作物の栽培・加工技術の普及に努めた。渡辺崋山のすすめで34年(天保5)に三河田原藩の興産方となったが,蛮社の獄による崋山の国元蟄居と同時に解雇され,のち江戸に居住した。一説では60年(万延1)に没したともいうが,没年は不詳。…

【小笠原諸島】より

…その5年後江戸幕府は開拓をはかるが失敗,1727年(享保12)小笠原貞任の一族が渡島を試みたが帰還せず,長く無人島のまま放置された。 対外的危機を訴えた林子平や渡辺崋山,高野長英らにより,蝦夷地とともに開拓することが説かれたが,1823年(文政6)アメリカの船員が母島に上陸し,27年にはイギリスの艦船が父島に寄港して領有を宣言した。次いで30年(天保1)にはアメリカ人セボリーらがハワイ系住民20人をつれて移住し,53年(嘉永6)にはペリーが日本渡航のさい寄港してセボリーをアメリカの植民政府長官に任じ,貯炭所の敷地購入などを行った。…

【尚歯会】より

…1833年(天保4)以来,数年にわたる天保の飢饉の際,紀州藩儒遠藤勝助が有志を募って飢饉対策のために設けたのがはじめで,のちに新知識や新情報交換の会合となった。この会合をもって渡辺崋山,高野長英を中心とする洋学研究団体とみなす説があるが,崋山,長英が尚歯会の有力メンバーであったにしろ,会合の主宰者が遠藤そのひとであることは,当時の文献に〈遠藤勝助尚歯会〉と明記されていることから知られる。尚歯会での飢饉対策の成果としては,遠藤勝助の《救荒便覧》,高野長英の《救荒二物考》《避疫要法》などがあげられる。…

【慎機論】より

渡辺崋山の著。1巻。…

【田原藩】より

…初期には荻生徂徠の高弟鷹見正長が家老として財政の建直しをはかった。幕末に登用された渡辺崋山大蔵永常を招いて殖産興業をはかり,報民倉をつくって備荒につとめ,藩校成章館を復興するなどめざましい藩政改革を行ったが,蕃社の獄で挫折した。【歌川 学】。…

【蟄居】より

…1792年(寛政4)《海国兵談》を著した林子平は兄嘉膳方に引き渡し在所において蟄居を命ぜられた。その他著名な事件としては,1839年(天保10)蛮社の獄に連座した渡辺崋山は主人家来に引き渡し在所において蟄居を命ぜられ,54年(安政1)佐久間象山,吉田松陰などもこの刑をうけた。59年水戸藩主徳川斉昭は将軍家定の継嗣をめぐって大老井伊直弼と対立し永蟄居を命ぜられたが,翌年危篤のゆえをもって免ぜられた。…

【椿椿山】より

…江戸小石川牛天神に住む。幕府の槍組同心で,絵を金子金陵に学んだが,金陵没後,同門の先輩渡辺崋山に師事し,後には明から清にかけて徐崇嗣,惲南田(うんなんでん),張秋谷と継がれた着色花鳥画の伝統を取り入れ,自らの様式を完成した。また崋山の得意とした肖像画も継承発展させた。…

【蛮社の獄】より

…1839年(天保10)に起こった蘭学者弾圧事件。弾圧の対象とされたのは,渡辺崋山とその同志である。渡辺崋山は田原藩士で,1832年に年寄役末席に挙げられ,海岸掛の兼務を命ぜられた。…

【三河国】より

…最初吉田藩,のち岡崎藩主となった水野忠善(ただよし)は,家康に仕えた三河以来の歴戦の勇士で譜代意識が強く,鬼監物と呼ばれて数々の逸話の持主である。中期以降は藩財政の困窮もあってその再建が試みられたが,なかでは岡崎藩の水野忠辰(ただとき)による藩政改革の試みと田原藩での渡辺崋山の活躍が注目される。忠辰は重臣の反対を押し切って人材を登用し,藩政の刷新を試みたが反対が多く,ついには改革も失敗し,座敷牢に入れられ,悲劇の名君といわれている。…

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