朝日日本歴史人物事典 「伊勢屋四郎左衛門」の解説 伊勢屋四郎左衛門 江戸後期の浅草蔵前の札差。名字は青地氏。「伊勢屋四郎左衛門」は享保期より明治維新まで続いた札差株仲間の世襲屋号・名前で,文化年間(1804~18)に最盛を誇った。代々の通称や俳号などは不詳。天王町二番組に属し,寛政1(1789)年の棄捐令では当家だけで8万3000両の債権を失い,当時最大の江戸札差で万事手堅い経営といわれた。天保年間(1830~44)には棄捐令の再発を免れるため仲間にも勧めて利子引き下げや献上金の提案をしている。昔なじみの吉原の遊女が零落していたのを引き取って妾に囲い,通人たちの評判となったことがある。<参考文献>北原進『江戸の札差』 (北原進) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊勢屋四郎左衛門」の解説 伊勢屋四郎左衛門(3代) いせや-しろうざえもん ?-? 江戸時代中期の商人。初代が江戸ではじめた米問屋・金貸業をつぎ,浅草蔵前(くらまえ)で札差(ふださし)業に進出。享保(きょうほう)9年(1724)札差株仲間の起立人となった。4代以降も堅実な経営をつづけ,寛政元年ごろには最大の札差業者であった。天保(てんぽう)9年江戸城西丸火災のとき,幕府上納金10万両余の世話方をつとめ,その功により町方御用達並となり,青地姓をゆるされた。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by