江戸(読み)エド

デジタル大辞泉 「江戸」の意味・読み・例文・類語

えど【江戸】


現在の東京都千代田区を中心とする地域。古くは武蔵むさし国豊島郡の一部であったが、平安末期、秩父ちちぶ平氏の一族江戸氏が今の皇居の地に居館を造り、室町時代、上杉氏の将太田道灌おおたどうかん江戸城を築いてから城下町として発達、さらに天正18年(1590)徳川家康が入城して以来、幕府の所在地として繁栄した。18世紀ころの地域は、おおよそ東は亀戸かめいど、西は新宿、南は大崎・南品川、北は千住尾久おぐ辺りの範囲内。幕末の総町数は2770余、推定人口100万に上った。慶応4年(1868)7月東京と改称、翌年には首都となった。
新吉原から見て、遊郭外の江戸市内、特に神田日本橋辺りをさしていった語。
「今日は―へ参りました」〈洒・遊子方言
新吉原遊郭の5町の中の江戸町。
「―から京(=京町)まで残らず素見すけんなり」〈柳多留・一四〉
の一品種。サトザクラの仲間。八重咲きの大きな花で、花弁の紅色は外側のものの方が濃い。江戸桜。

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精選版 日本国語大辞典 「江戸」の意味・読み・例文・類語

えど【江戸】

  1. [ 1 ]
    1. [ 一 ] 東京の前称。川が海に臨む江の門(戸)、または入江のある所の意。古くは武蔵国豊島郡江戸郷で、平安末期秩父平氏の一族江戸氏が麹町台地に館を造り、その後、室町末期に関東管領上杉氏の家臣太田道灌の江戸城築城により城下町として発展。北条氏の支配を経て、徳川家康が豊臣秀吉から関八州を与えられて天正一八年(一五九〇)に入城し、慶長八年(一六〇三)幕府を開いて政治的中心地となる。同時に内神田、日本橋、京橋一帯の市街地を整備して古町約三百町の町割りをし、五街道の整備、参勤交代の確立で急速に発展した。明暦三年(一六五七)の大火後、芝、浅草両新堀を開いて新町を作り、元祿年間(一六八八‐一七〇四)に人口百万の都市となる。天保年間(一八三〇‐四四)には二七七〇余町を数えた。慶応四年(一八六八)七月東京と改める。
    2. [ 二 ] 江戸御府外の地である新吉原、または、その他の遊里、深川、品川、新宿などの土地からみて、江戸市中をさしていう語。→江戸へ出る
  2. [ 2 ]えどぶし(江戸節)」の略。浄瑠璃の節章用語としては、江戸節をとり入れて語ることをいう。
    1. [初出の実例]「本フシ去年のゆかりと消残る。江戸雪の戸ざしの麓の関。八十瀬につづく加太(かたい)山」(出典:浄瑠璃・平仮名盛衰記(1739)一)

江戸の語誌

[ 一 ][ 一 ]の語源については諸説あるが、現在、「江所(えど)」説あるいは「江の門戸」説が有力である。いずれにしても、自然地形上からの命名で、「江」は広義には江戸湾(東京湾)、狭義には近世以前に存した日比谷入江を指すものと考えられる。

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改訂新版 世界大百科事典 「江戸」の意味・わかりやすい解説

江戸 (えど)

現在,世界有数の大都市として,また日本の政治,経済,文化の中心地である東京の前身が江戸である。江戸は1590年(天正18)から1868年(明治1)までの279年間,徳川氏の居城地で,江戸時代の政治の中心地であった。

江戸は,1590年に徳川氏の居城地となる以前にすでに小規模ながら城郭と町屋がみられていた。これは文明年間(1469-87)の太田道灌による江戸築城がなされてからで,平川(ひらかわ)(江戸の中心を北西から南東へ流れていた川。築城のさい,大部分が濠に利用された)河口にも毎日市が開かれていたという。1590年に小田原の後北条氏が崩壊したあと,関八州を領有することになった徳川氏は,江戸を居城地とすることにした。徳川氏は江戸を関八州の中心にしようと,低湿地の埋立て,船入堀の造成,橋の架設などを行った。神田湯島台などに屋敷地が造成されて三河などから家臣団を受け入れ,また日本橋辺の町地には畿内や東海地方からの商人が移住するようになった。しかしまだ江戸の町づくりは本格化していなかった。1603年(慶長8)に徳川家康が征夷大将軍となり,江戸は日本の総城下町として位置づけられるようになって,本格的な町づくりがはじまった。江戸城の拡充,武家地の造成とともに,日本橋,京橋,神田といった市街地が整然とした区画で整備されていった。これらの町は,寛永年間(1624-44)までに約300町に達し,のちに古町とか草創地と呼ばれるようになった。これらの町には呉服,木綿,米,魚などを取り扱う商人とともに,鍛冶,染,大工,武具などの製作・加工に従事する職人が多かったことはいうまでもない。

 このように本格的な町づくりがはじまったところで,特徴としていえることは,江戸の商人や職人たちはすべてといってよいほど他国からの移住者で,江戸生え抜きの者はほとんど見当たらないことである。もちろん徳川入国以前の村の有力者たちのなかには町名主となったり,徳川氏御用を引き受ける者も出ているが,それらは少ないといってよい。また江戸城周辺に土地をもっていた農民が,そこに武家地を造成するため,強制的に移転させられていったことにうかがわれるように,旧住民たちが,江戸の都市的発展に対応できなかったのは事実である。江戸城周辺の武家地も,駿河,遠江,三河からの家臣団の受入れだけでなく,全国から諸大名が徳川氏へ忠誠を誓うため,江戸に屋敷地をかまえるようになり,広大な土地が造成された。この過程で御用地として農地が召し上げられていったが,桜田霞ヶ関,麻布今井村,駒込村の農民たちは老中に駕籠訴を行ったりして反対した。全国の総城下町として発展していった江戸は,このように徳川氏の旧領地である駿河,遠江,三河などや経済的先進地である畿内などのほか,諸大名の江戸在府によってその領国からの出稼者などを含めて,ほとんど〈他所者〉によって形成されることになったのである。

 慶長から寛永期にかけて,急速に発展してきた江戸が,一つの転機をむかえることになった。1657年(明暦3)の大火は,江戸城の天守閣をはじめ町地の6割を焼きつくした。この大火以後,江戸城近くの大名屋敷や寺社の郊外への移転が行われ,町地でも火除地がつくられ,街道ぞいに町地が拡大していった。寛永期ころ下谷,湯島,四谷,赤坂,三田の町々が,日本橋,京橋,神田の地域と結びついた町並地として展開し,それに浅草,上野,芝などの寺社がそれぞれ独自に門前町屋を設けていたのである。明暦の大火以後はこれらの郊外の街道ぞいに町地が数多く形成されていった。そのなかには農村が都市化した百姓町も含まれていたが,多くは全国各地からの流入者が集まり,そこが下層民の集住地となっていったのである。1721年(享保6)に幕府評定所は〈無宿幷宿なし同然の者〉が集住するようになった地域として,根津権現,護国寺門前,越中島辺,麻布,本所辺の新町をあげ,以後こうした新町の設立を認めないとしたように,拡大しつつあった都市域には,下層民が定着する,いわゆるスプロール現象が進行していったのである。こうした山手の町々が無秩序にスプロール化していったのに対し,寛文~元禄期(1661-1704)に造成された本所・深川の地域では,整然とした町並みで,武家地と町地が設定されていったが,その町々にも多くの下層民が定着していった。

 つぎに江戸の都市的膨張を町数の面からみると,寛永期の古町中心の300町から,1713年(正徳3)には,代官所支配地の町も編入して933町に,ついで45年(延享2)には寺社門前町の町地編入も含めて1678町と増大している。人口数からみると,1695年(元禄8)に35万人で,1721年には50万人となっている。この人口は町人だけであるから,ほぼ同数とみられる武家人口を加えると,約100万人が江戸の総人口ということになり,当時のロンドン,パリなどをしのいで世界一の巨大都市ということになる。

このように膨張してきた江戸の経済的中心は日本橋辺である。元禄期ころの商工業の展開状況をみると,伊勢町,小船町,堀江町といった水運に便利な河岸付きの町々に米,塩,綿,材木,酒,木綿などの問屋が多く,ついで北は神田から南は新橋にいたる間の町々には,本町の呉服屋を中心に,絹,塗物,鏡,仏具,琴,三味線,小間物といった都市的需要の多い諸商品を商う店が展開している。またこうした町々の周囲に職人や小商人が居住していた。日本橋の北部から神田にかけて,縫箔,紫根,紺屋,銀細工,紅染,畳屋,やかん,うどん,干物,水菓子といったものを作ったり,売ったりする職人や小商人が多くいた。こうした〈諸職,商家入組〉といった状況は神田から新橋にいたる表通りの町の周囲に数多くみられていたのである。日本橋辺の商工業の状況とちがうのが拡大しつつある郊外の町々である。新橋を過ぎて芝金杉橋,そして高輪の方へ来ると町々には小商人の存在とともに古道具,古手,馬宿,飛脚宿といった商売が目についてくる。さらに西久保通り,赤坂通りに目を向けると,古道具,古着を商う者が多い。こうした商工業とともに下層民が数多く居住しているのが,農村に接する場末の町の状況といえよう。

 江戸の商工業は,この元禄期ころに大きく変わろうとしていた。これまでの江戸の商業は畿内や東海地方の送り荷を引き受け,それを売りさばいて口銭などをとる荷受問屋的なものがせいぜいであったが,三井家の越後屋が京都の西陣織や関東各地の田舎絹を仕入れて,延宝期(1673-81)以後に急速に発展していったことからうかがわれるように,積極的に商品を仕入れる問屋が登場してきたのである。畿内,東海地方の木綿類を売買していた大伝馬町でも,元禄期には4軒の荷受問屋と70軒の生産地出身の木綿仲買が対し,後者が仕入問屋となって,前者を圧倒するようになるのである。

 江戸の経済は,畿内などからの下り商品によって維持されていたことはまちがいないが,それでもこうした問屋商人たちの交代からうかがわれるように,しだいに独自性をもつようになり,やがて関東,東北地方を販売圏とするようになっていったのである。江戸の問屋商人たちは,やがて自分たちの仕入れた商品の海上輸送に強い関心をよせ,廻船を支配下に置く十組仲間を結成していった。また,江戸での物価騰貴を抑えるために,幕府は享保期(1716-36)に問屋仲間を公認するようになった。

江戸は徳川将軍家の居城地であり,武家の都である。人口の半分近くが武家人口であるから,屋敷に出入りする札差から台所出入りの商人や職人たちも多かったし,下働きの奉公人たちも周辺農村の出身者が数多く,江戸の住民構成の特色であるといえる。また実質的には都市の下層民と同じようになっている御家人層の存在も軽視できない。幕府直属の御家人は推定で約6万人とされているが,これらはわずかな扶持と土地を拝領しているだけであるから生活を維持していくだけでもたいへんであった。そこで拝領地内に長屋を建てて町人に貸し,店賃を得て収入とするようになった者が多い。御小人組,御簞笥組,御納戸組,黒鍬組といった御家人たちも,それぞれの拝領地内に町方の下層民と混住するといった現象がみられたのである。

 御家人の拝領地内につくられた長屋に居住した者と同じような店借(たながり)は多い。ほとんどが9尺間口の,4,5坪の部屋に住み,日雇い稼ぎや棒手振り(行商)に従事している。1ヵ所の長屋に定住せず,転々と長屋を移る者も多かった。こうした生活をする人々は,江戸の町人人口50万人の過半を超えていると思われる。文政年間(1818-30)の調査によると,江戸の芝から麻布,赤坂,四谷,牛込,本郷,湯島,下谷,本所,深川の地域の住民で,店借はほぼ50~60%である。そして米価騰貴のときなどは全住民の80%くらいが拝借米の支給をうけないと生活が維持できなかった。

 幕府がこうした数多い下層民のために拝借米の支給や町会所を通しての米金の施行に力をつくしたのも,将軍家のおひざもとである江戸に社会不安をひきおこしたくなかったからである。江戸の民衆の打毀(うちこわし)は1733年の米問屋高間伝兵衛への打毀が最初であるが,87年(天明7)の大打毀は,これによって田沼政権から松平定信の時代に変わっていったほどの事件として評価された。政権を獲得した松平定信は,江戸に社会不安をひきおこさないために,これまで個々の豪商たちの数ヵ町規模の施米金でなく,江戸全体で下層民の生活保障のしくみをつくろうとして町会所をつくったのである。この町会所は町入用の節減分によって,下層民の居住する長屋の建築資金や米価高騰期の施米金に当てるというねらいをもってつくられ,寛政期(1789-1801)から幕末にいたるまで都市秩序の維持のうえで大きな役割を果たした。

文化・文政期(1804-30)は江戸文化の爛熟期といわれ,華やかな様相を示していたが,経済的にも大きな変化がおこっていた。それは江戸経済が大坂や京都に強く結びつけられていた状況から脱し,関東農村の経済発展にともなって,その中心としての位置を強めていったことである。江戸地回り経済圏と呼ばれるものが形成されるようになっていき,関東各地の特産品生産が増えるにしたがって江戸との結びつきが強まり,その流通部門の担当者たちはしだいに江戸に出店をもつようになった。こうした地回り経済の発展はこれまで大坂などにしか顔の向いていなかった問屋商人たちに大きな打撃を与えたのである。天保の株仲間解散はこうした江戸地回り経済の発展に照応した,商品流通機構(仮組など)に入った商人たちを新たに編成するためのものであったといえよう。

 幕末期の江戸は下層民の増加,地回り経済の発展といった社会・経済面での変化がはっきりみられるようになった。そうした変化のなかで1866年(慶応2)の大打毀がおこり,町会所による下層民救済の方式が効力を失い,三井などの豪商たちは巨額な施米金によってかろうじてその身の安全を図っていたところで明治維新がおこったのである。幕末期の江戸の状況を引き継いだ明治政府は,東京を近代日本の首都とすることにしたが,そのためには都市秩序の安定を図り,新しい都市支配の体制を再建しなければならなかった。
江戸っ子 →東京
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「江戸」の意味・わかりやすい解説

江戸
えど

東京の前身である都市名。武蔵(むさし)国豊島(としま)・荏原(えばら)両郡、下総(しもうさ)国葛飾(かつしか)郡の接する地域で、呼称については「入り江の門(と)」に由来するとするなど諸説がある。

[吉原健一郎]

変遷

江戸という地名が歴史上に登場するのは12世紀の末である。『吾妻鏡(あづまかがみ)』の1180年(治承4)8月26日の条に、江戸太郎重長(しげなが)の名がみえ、江戸氏が武士団の一つとして江戸の地を本拠としていたことがわかる。広大な武蔵野一帯は古代以来、官営の牧が置かれ、また荘園(しょうえん)も存在したが、それらの地域から武士団が発生し活躍したのである。室町時代には、扇谷(おうぎがやつ)上杉家の家臣であった太田道灌(どうかん)によって江戸城が建設された。1457年(長禄1)に完成した城は景勝の地でもあり、禅僧などの文化人が訪問し、漢詩文に記録された。城下は平川の河口にあたり、諸国から商人が集まり市(いち)が立てられたという。後北条(ごほうじょう)氏の時代になると、江戸城には城代として遠山氏が配備され、一帯を領有した。1590年(天正18)に豊臣(とよとみ)秀吉が小田原の後北条氏を破り、関東八か国を与えられた徳川家康が入城した。家康は道三(どうさん)堀や小名木(おなぎ)川を開削し、城への物資輸送を容易にした。さらに本町などの町割に着手したといわれる。ついで92年には、日比谷(ひびや)の入り江を埋め立て城下を拡張した。1603年(慶長8)に征夷(せいい)大将軍となった家康は、いわゆる「天下普請(ぶしん)」を開始する。諸大名に命じて多数の人夫(千石夫)を徴発し、神田山(かんだやま)の台地を崩して、豊島の洲(す)を埋め立て、広大な土地を造成した。このようにして、日本橋から南へ、京橋から新橋に至る町人地が生まれたのである。東海道も新しい町地を通過するようになり、日本橋が諸国への街道の起点とされた。城の大手やその周辺には諸大名の邸宅が並び、参勤交代制度や大名妻子の人質制度が実施されるようになると、江戸は名実ともに全国の総城下町としての性格を強めた。

 1633年(寛永10)ころには、長年にわたった江戸城の整備も完了した。寛永(かんえい)期(1624~44)の江戸の町人人口は約15万人であったという。1657年(明暦3)の江戸の大火は市中の3分の2の地域を焼失させた。幕府は大名屋敷の城外への移転をはじめ、諸大名に上・中・下屋敷を与えるなどの都市計画を行った。さらに寺院も郊外へ移し、各所に防火施設としての土手や広小路を設置した。江戸の町数も、寛永年間には300町(古町)ほどであったが、1662年(寛文2)には周辺の宅地化した区域を町並地として町奉行(まちぶぎょう)支配とした。さらに1713年(正徳3)にも259町を編入、合計933町となった。また1719年(享保4)には本所(ほんじょ)、深川(ふかがわ)の地も支配地に加えられ、1745年(延享2)および翌年に寺社門前地が編入され、総町数は1678町に拡大した。こうした市街地の拡大は、流入人口の増加によるものであったが、享保(きょうほう)期(1716~36)の人口調査では、町人人口は50万人を超えている。これに武家などの人口を同程度と考えれば、江戸は18世紀の初頭には100万人以上の大都会に成長していたと考えることができる。しかも、江戸の町人たちは下町とよばれた地域に高密度で居住しており、町人地の面積は御府内の20%に満たなかったのである。これに対し、武家地は全体の60%を占め、主として山の手地域に広大な屋敷地が与えられていた。残りの地域は寺社地であった。

 当初は2里四方といわれた江戸も、近世中期以後は4里四方という拡大をみせた。このため江戸の範囲を明確にする必要があり、1818年(文政1)には寺社勧化(かんげ)場(募金の許される範囲)の区域を朱引(しゅびき)内、町奉行支配区域を黒引内とする区画が明確になった(黒引内は朱引内のほぼ内側にあり、もっと狭い)。しかし実質的には、江戸は御府内の範囲を越えて周辺地域にまで拡大していったのである。1868年(慶応4)4月11日江戸城開城、7月17日江戸を東京と改称し東京府が置かれた。その区域は旧朱引内で、その他の代官支配地は武蔵県、韮山(にらやま)県などとなった。

[吉原健一郎]

江戸の特色

江戸は全国の総城下町であり、政治都市であった。将軍が居住する江戸城は、同時に幕府政治の政庁として存在した。さらに、参勤交代制度による諸大名の居住地でもあり、多数の旗本や御家人(ごけにん)が集住する武都である。したがって、これらの武家人口の生活を保障するために、多くの商人や職人が町人地に移住させられた。この点では大消費都市という性格をもっている。明暦(めいれき)大火(1657)後の江戸の人口増加は、消費生活の拡大をもたらした江戸の社会に、全国的な商品経済の発展による成果が吸収される結果生じた現象である。すなわち、江戸の発展は、畿内(きない)諸都市の物資の移入によって支えられていたのであり、関西商人の江戸進出による江戸店(だな)の成立が必要不可欠であった。元禄(げんろく)(1688~1704)の江戸十組問屋(とくみどんや)の成立にみられるごとく、17世紀の後半に経済的に江戸を支える商品流通機構が確立した。さらに江戸は諸国からの流入人口によって成立しており、その多くは男性であったため、男性都市としての性格をもっている。その面では町人の構成が、男性が3分の2を占めるという特色があり、幕末期になってようやく男女の比率が等しくなるのである。このため早くから遊廓(ゆうかく)や岡場所などが発生し、都市文化にも大きな影響を与えた。

 さらに、火災都市という特色がある。風水災や地震の被害、疫病の流行など都市災害も忘れてはならないが、江戸の象徴的災害は火災である。1590年(天正18)以来、幕末までの間に、記録された火災の総件数は1800件を超えている。単純に平均しても、年に約7件の火災が発生し、大火も多かった。火災の頻発は、住民の経済生活をはじめ意識構造に至るまで、決定的な影響をもたらしている。ついで、強制移転都市という特色がある。大名の改易や昇進、役職や地位の変化によって、邸宅はめまぐるしく変わり、江戸は全国の政治支配の縮図的様相を呈している。旗本などもこれに準じ、屋敷替は相対(あいたい)(相互交換)を含め年中行事化した。町地についても、都市計画その他の理由で代地町(だいちまち)が与えられるなど複雑な移転がみられる。この結果、町支配にも変化がみられ、同時に大縄地(おおなわち)(集団知行地(ちぎょうち))などの武家地に町人が居住する傾向もあって、身分による居住地の限定も崩れていったのである。

 18世紀以後になると、大坂の地位の相対的低下と、幕府の政策による江戸市場中心主義の施策によって、関東周辺の商品生産が展開し、いわゆる地廻(じまわ)り経済圏が成立してくる。近郊農村における蔬菜(そさい)栽培と肥料としての屎尿(しにょう)の調達、さらに桐生(きりゅう)などの機業地や銚子(ちょうし)などの醸造地が形成され、江戸は関東周辺地域と多様な結び付きをもつ都市として発展したのである。

[吉原健一郎]

町方支配

江戸の町支配は、家康の江戸入国直後には地方(じかた)支配をも兼ねた代官頭が担当していた。ついで、青山忠成(ただしげ)、内藤清成(きよしげ)などの関東総奉行による支配を経て、寛永10年代に中級旗本による専任官僚としての町奉行の成立をみたのである。町奉行は通常2名(南・北)であったが、1702~19年(元禄15~享保4)には3名体制(南・北・中)になったこともある。奉行のもとには与力(よりき)、同心が配属され行政事務や犯罪捜査にあたった。奉行所の機構は幕末に近くなるほど複雑化してくる。

 町人の側では、入国当初から、奈良屋(館(たち)氏)、樽屋(たるや)(樽氏)、喜多村(きたむら)の3家が世襲で町支配を担当した。これら3家はのち町年寄とよばれるようになる。町年寄の職務は町触(まちぶれ)の伝達、宗門改(あらため)、人別改、地面の受渡しなど町政事務一般を町奉行の指示のもとで処理した。このほか商人や職人の統制業務などにも従事した。町年寄のもとで町を支配したのが名主(なぬし)である。名主は1722年(享保7)には264人いるが、ほかに新吉原の4人を加えると268人となる。名主は、その任命された時期によって、草創(くさわけ)名主、古町(こちょう)名主、平(ひら)名主、門前名主などに区分され、格式も相違していた。また支配区域も1人で数町から数十町と開きがあった。

 町の内部をみると、町内に家屋敷をもつ家持(いえもち)、他町に居住し町内に屋敷地をもつ地主(じぬし)が正規の町人として認められていた。これらの町人は幕府への奉公である国役(くにやく)や、人足役である公役(くやく)を屋敷地の間口の広さに応じて分担し、同時に町を運営する町入用を負担した。17世紀中期以降、江戸の発展とともに、町屋敷の売買が活発になると、土地の管理を行う差配人である家守(やもり)(大家(おおや)、家主(いえぬし))が増加し、月行事と称して毎月交代で町政の事務に従事するようになった。家守は管理する屋敷地内の地借(じがり)、店借(たながり)の人々から地代、店賃を徴収し、町の木戸際などに建てられた自身番屋において事務を行った。ほかに町代(ちょうだい)と称する書記が各町に雇われていたが、不正や横暴がみられたため、1721年(享保6)に廃止され、以後は物書(ものかき)(書役)を採用することが定められている。

 町役人の業務は、町奉行、町年寄のもとで町政事務全般を行うのであるが、元禄期の記録によれば、町触の伝達、人別の確認などのほか、欠落(かけおち)人の探索、盗人の届、捨子の養育、捨物・倒者(たおれもの)の処理、義絶・勘当(かんどう)の証明など多様である。とくに名主は訴状や土地売買証文(沽券(こけん)状)の奥書、さらに訴訟事件の付き添いなどの職務もあった。名主は玄関(げんか)様とよばれ、自己の判断(手限(てぎ)り)で問題を処理する権限も有していた。天明(てんめい)の打毀(うちこわし)(1787)に象徴されるように、米価の高騰などによる下層町人の反抗は、町の自治、町共同体の存続に大きな影響を与え、寛政(かんせい)の改革(1787~93)の際には町会所による救済機関が設置されている。江戸は武都から町人の町へ変質し、18世紀には「江戸っ子」意識が成立するなど、「いき」や「はり」の町人意識を生み出し、さらに歌舞伎(かぶき)、浮世絵、洒落本(しゃれぼん)、黄表紙、瓦版(かわらばん)などの分野で多彩な町人文化を成立させた。

[吉原健一郎]

『西山松之助編『江戸町人の研究』全5巻(1972~78・吉川弘文館)』


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百科事典マイペディア 「江戸」の意味・わかりやすい解説

江戸【えど】

東京の前身。中世以降江戸氏が土着していたが,1457年太田道灌江戸城を築いてから発達。1603年徳川氏の幕府開設とともに政治の中心となり,城下町建設も行われ,江戸を起点に五街道も開かれた。1635年から1642年にかけて参勤交代が確立すると,武士の妻子が江戸に常住することになり人口は膨張。1657年の明暦の大火で街の大半は焼失したがすぐに復興。〈将軍のお膝元〉の大消費地として町人を育て,庶民文化の中心も化政期には大坂から江戸へ移った観があった。全国的な商業都市に発展し,1721年ころには人口100万人と推定される世界最大の都市になった。1868年東京と改称,翌年より首都となった。→江戸幕府
→関連項目上方三都日本橋魚市武江年表文化文政時代町奉行武蔵国

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「江戸」の意味・わかりやすい解説

江戸
えど

東京の旧名。東京都の中央部にあたる。江戸時代の幕府の本拠地。江戸とは「入江の口」の意味で,「江の門戸」の略語といい,また荏 (え) の多く生えた土地,すなわち荏土から出たともいう。また古く武蔵国豊島郡の一部江戸郷から出たともいう。江戸の名称が文献に初めてみえるのは,治承4 (1180) 年,江戸太郎重長の名で,江戸氏は平安時代末期秩父平氏の一族重継が初めて称したという。以来,南北朝時代頃までこの地にあって,現在の麹町台地の一画に館を構えていた。室町時代には上杉氏の領有となり,その家臣太田道灌が長禄1 (1457) 年ここに江戸城を築き,城下町が形成されるにいたった。戦国時代の大永4 (1524) 年以降は北条氏の領有に帰したが,北条氏滅亡ののち,天正 18 (90) 年8月1日 (八朔) 徳川家康が入封してこの城を修築し,関八州統治の本城とした。江戸は慶長8 (1603) 年家康の幕府開設とともに,政治の一大中心地となった。徳川氏は,寛永年間 (24~44) 頃までに,江戸城の改築,武家屋敷,寺院,町家などの整備を終え,さらに五街道を設置して交通制度を拡充するなど,城下町としての町づくりを完成した。明暦3 (57) 年の大火で町の大半は焼失したが,市区改正事業の実施で市街地は一変し,町奉行の支配地は,東は今戸橋,南は高輪,北は坂本まで拡張された。元禄 10 (97) 年頃には,麻布,赤坂,青山,千駄谷,大久保,四谷,小石川,駒込,本郷,浅草,本所などの地を開き,正徳3 (1713) 年には,百姓町家を町奉行の支配下におき,府下の町数は 933に達したという。この間,町人の生成,商業の発達も著しく,商業の中心地として発展するにいたった。享保年間 (16~36) には,江戸の区域は隅田川以東にも及び,江戸時代末期には町数 2770あまり,人口 100万をこえたという。明治維新前後の動乱期には一時衰えたが,明治1 (1868) 年7月 17日,江戸は東京と改称され,翌年には首都と定められ,新しい日本の政治,経済,文化の中心地となるにいたった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「江戸」の解説

江戸
えど

東京の前称。平安末期以来の地名。江戸氏が居館をつくり,1457年(長禄元)太田道灌が江戸城を築いた。戦国期には後北条氏の支城がおかれた。1590年(天正18)徳川家康が入城,1603年(慶長8)家康が征夷大将軍に任じられ幕府を開いて以降,日本の政治的中心となる。江戸城築造や町割の実施,五街道の開設,参勤交代の制度化,将軍直属家臣団の集住などにより,市街は急速に発展した。明暦の大火(1657)後の再開発で市域を拡大し,18世紀初めには人口100万をこえる巨大都市となり,一大消費市場を形成した。一方では関東・東北地方に対する中央市場,上方と結ぶ中継市場としても機能した。巨大都市化の結果としてさまざまな都市問題も発生し,とくに貧民層の肥大化は,享保・天明・慶応各期の大規模な打ちこわしの要因となった。明治期になって江戸城の跡に皇居がおかれ,東京と改称。

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旺文社日本史事典 三訂版 「江戸」の解説

江戸
えど

東京都心部の旧地名で,江戸幕府の所在地
古代は現在の皇居付近の地名で武蔵(埼玉県)豊島郡に属す。平安末期に秩父流平氏の一族がこの地方を領有・開発し江戸氏を称した。1457年太田道灌 (どうかん) が築城したのが江戸発展の起源となり,1590年徳川家康の入府後,城下町経営が進められ,以後政治の中心として発展した。1603年家康の将軍宣下と同時に神田・日本橋・京橋など町割りが実施され,町政は町奉行支配下に樽屋・奈良屋・喜多村の3町年寄により自治的に行われた。1635年参勤交代の制度化に伴い諸大名の藩邸が建てられ,武家人口が増加し大消費都市となった。18世紀には武家人口を含め総人口100万人と推定され,ロンドン・パリをこえ世界最大の都市となった。1868年東京と改称され,翌年遷都が行われた。経済上・文化上の中心でもあった。

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動植物名よみかた辞典 普及版 「江戸」の解説

江戸 (エド)

学名:Prunus lannesiana
植物。バラ科の落葉高木

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世界大百科事典(旧版)内の江戸の言及

【火事】より

…【関根 孝】
【大火の歴史】

[日本の火災]
 《日本災異志》には,552年(欽明13)から1865年(慶応1)までに1463件の火災が記録されている。もちろんこれは,奈良,京都,鎌倉,堺,大坂,江戸などの都市のみであり,記録されない火災はこれよりはるかに多かったにちがいない。現在でこそ大火といわれるような火災は激減したが,建築物のほとんどが木造だったこともあって,火災にあうことはきわめて多かった。…

【関東地方】より

…関東地方は大きく浅い盆地となり,その最も低い部分は,渡良瀬川が利根川本流に合流する古河(こが)市付近で,赤麻沼が洪水調整池となっていた。江戸川との分流点,関宿の堤防が切れると江戸が危いといわれ,河道の付替えなど治水工事は江戸時代から現代までくり返し施工されてきた。また東京都の東端部には地盤沈下のため海抜0m以下の部分も存在する。…

【下り塩】より

…江戸時代塩廻船によって江戸に移入された瀬戸内産塩。開府当初の江戸の塩需要は下総行徳,武蔵大師河原など江戸湾岸で産出される地塩(地廻り塩)に依存していたが,江戸の発展は地塩だけではとうてい需要を満たしえず,瀬戸内十州塩に依存せざるをえなくなった。…

【喧嘩】より

…夫婦げんかは犬も食わないというのは,ほうっておけばひとりでに仲直りをしてしまうから,よけいなおせっかいはしないほうがいい,犬ですら夫婦げんかには関心をもたないという意味である。火事とけんかは〈江戸の華〉といわれたが,はでな騒ぎになるからだとされている。また火事があると復興に金をつかうので景気がよくなる,けんかも仲直りに飲食が付物なので飲食店がもうかる,それゆえ華にたとえたという説もある。…

【ごみ】より

…近世になると,ごみの処理が都市政策に取り上げられてくる。江戸では1655年(明暦1)に,江戸の水路を確保する政策の一環として,ごみを川に捨てることを禁じ,これを船で運んで永代島へ捨てることを町々に命じた。ごみを市街地の外へ捨てることになったのであるが,そのためにごみ処理は,収集,運搬,処分の3過程に分離した。…

【三都】より

…江戸時代,幕府の直轄都市で人口などの面でずぬけて規模の大きかった京都,江戸,大坂をいう。元禄期(1688‐1704)ころの三都の人口はほぼ35万人前後であったが,同じ幕府の直轄都市堺が約6万,長崎が約5万,また城下町として最大規模の金沢,鹿児島,名古屋が約5万であったから,三都の大きさがわかる。…

【すし(鮓∥鮨)】より

…後者は握りずしに代表されるもので,日本独特の米飯料理である。すしは,鮓,鮨,寿司,寿志,寿しなどと書かれるが,鮓と鮨のほかはすべて江戸中期以後に使われるようになった当て字であり,また,〈すもじ〉〈おすもじ〉というのは室町時代から使われた女房ことばである。鮓と鮨はともに古い漢字で,代表音は鮓がサ,鮨がシである。…

【大名屋敷】より

…江戸府内および近郊に置かれた諸大名の屋敷。当初は外様大名の妻子在府にはじまり幕府も屋敷地を適宜賜与していたが,1635年(寛永12)参勤交代制の確立以来,諸大名の江戸藩邸の設置が一般化し計画的な配置が行われるようになった。…

【人返し】より

… なお戦国末には,こうした個別散発的な欠落に対する人返し策のほか,戦火や災害を原因として集団的に離村した農民を対象とする還住策,つまり荒廃した農村の復興を目的として,数年間にわたる年貢の減免などの優遇措置を伴う人返し策も広く行われ,逆にこの優遇措置の獲得をねらう農民の意図的な集団離村も行われた形跡がある。【藤木 久志】(2)江戸幕府が社会不安の源ともいうべき過大な都市人口を抑制するため実施した帰農政策。1790年(寛政2)相次いだ寛政改革の諸法令のなかで,旧里帰農令が出されている。…

※「江戸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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