日常用語としては物品を販売する人,〈あきんど〉の意に用いられるが,商法上の用語を別とすれば,学問上の用語ではないので,広狭いろいろな定義がありうる。狭義には,たとえば商業を営む人(法人を含む),すなわち商業者の意味で使われる。これは,生産者と消費者の間(生産者と生産者の間等もある)に介在して再販売業務をもっぱら営んでいる者で,独自の資本を投下し生産者や消費者から独立している者のことである。生産者の販売会社(自動車メーカーの販売子会社等)とか消費者の生活協同組合などは,それぞれから独立していないので,これに含まれない。広義には,たとえば商法の規定のように,〈自己の名をもって商行為をなすを業とする者(固有の商人)〉および〈擬制商人〉を商人とする定義がある。
商法は営業の主体を商人とするが,具体的には次の二つの方法によって商人を定める。第1は商行為の概念を援用して定める方法で,その商人を〈固有の商人〉という。ただ,この方法によると商行為にあたらない農林,水産,養豚業などの原始産業を営む者の多くを商人から除外してしまうことになる。そこで第2に,商行為概念に立脚せず,企業的設備または経営形式に着目して商人を定める方法をもとり入れている。この場合の商人を擬制商人とよぶ。まず,固有の商人とは〈自己の名をもって商行為をなすを業とする者〉(商法4条1項)のことである。〈自己の名をもって〉とは,自己がその行為から生じた権利義務の帰属主体となることである。たとえば親権者が未成年の子のためにあるいは代表取締役が会社のために商品の売買契約を締結したとき,商品を引き渡すべき義務および商品の代金を請求できる権利は子または会社のものである(親権者,代表取締役は代理ないし代表行為をしたにすぎない)。したがってこれらの場合は子または会社が商人となり,親権者,代表取締役が商人となるわけではない。夫が妻名義で営業の届出をした場合でも実質上の権利義務の主体者が商人となる。〈商行為をなすを業とする〉とは絶対的・相対的商行為を営業として,つまり営利の目的で同種の行為を反復継続することである。博覧会開催期間中の売店でも継続性がある。営利目的さえあれば実際に利得したか否かを問わない。次に,擬制商人とは次の者をいう(4条2項)。(1)店舗その他類似設備により物品を販売することを業とする者。たとえば自分で作った農作物を店舗で販売する者がこれにあたる。(2)鉱業を営む者。(3)農林,水産,養豚業などの商行為以外の行為を営業目的とする民事会社(52条2項)。
ところで,固有の商人,擬制商人は一般の商人(完全商人)であるのに対し,資本金(営業財産の現在価額の意味)が50万円未満の商人でかつ会社でない者は,とくに小商人とよばれる。小商人はあまりに小規模な商人であるため,商業登記(商業登記を前提とする支配人の制度も同様),商号および商業帳簿に関する規定は適用されない。自然人は無制限の権利能力を有するので,無能力者(未成年者,準禁治産者,禁治産者)をも含めてだれでも商人となる資格がある。もっとも,無能力者はみずから営業活動をする能力(営業能力)は制限されている。商人資格の取得時期は営業開始時ではなく,営業の準備行為(店舗の借入れなど)により営業の意思を実現したときと解されるが,この点見解が分かれる。法人の場合,その存在目的が営利性とは相いれないものに制限されている法人は商人となりえないが,存在目的が一般的な公法人(国家,地方公共団体)は市バスなどの営利事業を行うかぎりで商人となる。この場合の商人資格の得喪時期は自然人の場合と同じである。営利法人たる会社は生れながらの商人であり,会社成立とともに商人資格を取得する。
執筆者:森 淳二朗
市(いち)の存在は古いが,生産者どうしの物々交換が多く,専門の商人の出現ははるかに遅れる。藤原京,平城京,平安京には官営の市がおかれ,市籍人が売買に従事している。史料に見る専門の商人の初見といえよう。《延喜式》の規定では,平安京東・西市の市人・市女は市籍をもち,原則として市町に居住して交易を行い,地子を免除されていた。市町には市籍をもたず,地子を免除されない商人もいた。これらの区別は,律令制の衰退によってくずれた。また,奈良末~平安初期成立の《日本霊異記》は,酒を売る女富豪の存在を伝えている。平安期には農村,山村,漁村のそれぞれの特産物の交換が盛んになり,頭上に魚類などを載せて売り歩く〈販女〉などの行商人が姿を現しはじめる。連雀商人や高荷商人など背負具の名によってよばれたり,馬や牛車で運んだり,隊商を組んで地方と京都を上下するものもあった。平安末~鎌倉初期成立の《今昔物語》には,隊商を組んで京から鈴鹿を越えて伊勢へおもむく水銀商人の存在を伝えているし,《田植草紙》は千駄櫃(せんだびつ)を担った〈京下りの商人〉をうたっている。
平安末期の京都では,東・西市が衰え,三条,四条,七条通りと,町通りの交差点に店舗ができ,定住店舗をもつ商人が増えはじめた。これらは原料仕入れ,製造・販売を一手に行うもので,問屋と小売も未分離であった。商人の多くは,院宮諸家の権門や寺社に奉仕して,供御人,神人,寄人,散所雑色などの身分を獲得し,諸国通行自由,関銭免除,治外法権の裁判特権などを獲得しており,諸国と京都を往反して,商品の交易に従事していた。また,その特権を守るためと,領主への奉仕のために座を結成していた。
鎌倉末,南北朝期になると,京都,奈良や,それと諸国をつなぐ中継都市には,専業の問丸が荷物の中継や,商品売買に従事するようになった。彼らは同一職種による座組織を結成し,営業独占権を行使した。例えば京の南の港町,淀に着岸する塩,塩魚については〈淀魚市問丸中〉としていっさいの営業を独占し,着岸強制権さえもったのである。同じころ,地方村落にも市場が群生したが,この市に立つ小売商人は仕入れ,運送,小売に従事し,市座の営業独占権を主張している。近江の湖東では,応仁・文明時代ごろを境にして,仕入れ,運送と市の小売は分化し,前者に従事する問屋的商人は商品流通路の独占を主張するに至っている。
商人にはそのほか,借上(かしあげ),土倉などの金融業者や酒屋などが力をもっていた。京都には土倉,酒屋それぞれ300~400に及んでおり,室町幕府の財源となった。諸国でも大名の御用商人が土倉,酒屋を兼ねていることが多い。彼らは僧侶が多かったが,高野聖,勧進聖など法体の商人が多いのも中世の特色である。また女性の商人も多く,相当大きい商売を営んでいる。〈唐人〉と称された中国人も,貿易や,その商品,例えば薬などの販売に従事しているものに多かった。
執筆者:脇田 晴子
近世の商人は,その性質からみて初期豪商,近世本町人,仲間外商人に大別することができる。
初期豪商は初期特権商人,初期門閥商人などとも呼ばれる。戦国大名が権力を確立して近世幕藩体制を形成する際,彼らは経済の側面から幕藩領主権力の成立を助けた。軍需物資の調達・輸送,金融,城下町整備などで活躍し,ときには代官的な役割を果たした。大堰川,富士川,高瀬川などを開削して米や物資の輸送を可能にし,通船料取得の特権をえた角倉了以や,大坂の道頓堀川を開削して水上交通と市街の発達に寄与した安井道頓,中之島を開発して市場を開いた淀屋个庵(こあん)などが著名である。彼らは幕藩権力と結びつき,政商的性格をもっていた。機能面からみても,金融,運送,倉庫,商取引など複合的であり,専門化していなかった。
これに対して17世紀半ばから台頭してきた近世本町人は,当初単一の専門職種で活躍し,企業の拡張につれて隣接分野の職種またはその職種の前後の分野の業種に手を広げた場合が多かった。清酒の醸造とその江戸積みから出発し,海運,米輸送,大名貸,両替業へと多角化した大坂の豪商鴻池家,松坂出身で京都に本拠を構えて江戸で呉服店を開き,送金の必要から両替業を兼営した三井家(越後屋)などはその代表である。南蛮吹という銅の製錬技法を習得した輸送銅精錬業の住友家は,幕府の貿易政策と関連の深い業種であったから,はやくから幕府との結びつきができたが,当初から幕藩権力と結びついて発展したわけではない。住友は銅山採掘とともに,両替業を兼営するようになった。元和偃武後には,近江,山城,河内,摂津等から京都,大坂等へ進出して成功し,近世本町人となった新興の商人が多い。呉服商の白木屋(現,東急百貨店),大丸などもこの分類に入るだろう。諸国の城下町でも同種の商人層が台頭していた。これらの商人は蔵元,両替商,米商,呉服商,木綿問屋,油問屋,海運業などの専門の職種を基本としたが,大規模になると兼業となった場合が多かった。
諸地方から多種類の商品の販売を委託されて,各商品をそれぞれ専門の問屋,仲買へ売りさばき,口銭を取ったのは荷受問屋であった。都市によっては万(よろず)問屋とか,大問屋といわれた。荷受問屋は近世中期以降,商品経済が進展し,商業組織が整備されてくると,品物ごとに直接それぞれの専門の問屋,仲買へ売り渡されることが多くなり,衰退の傾向にあったが,明治期まで存続した。
近世商人の主流は問屋,仲買,小売の形態をとり,それぞれ仲間を結成し,その多くは仲間人数を制限し,取引の独占を幕藩領主から認められるようになった。これを株仲間という。商人仲間の結成は取引を安定させるためには効果があったが,商品経済が進んでくると円滑な取引の阻害要因となった。取引経路を独占した仲間は,買いたたいたり価格をつり上げたりしたし,いろいろの名目で歩引(ぶびき)を要求したり手数料を徴収したりした。そのため仲間外の商人が輩出して,生産者,荷主,消費者の要求にこたえようとした。近世中期以降,ほとんどすべての商品に関して,仲間外商人と株仲間商人の間に紛争が起きた。株仲間商人の取引独占は都市の消費物資の価格高騰をもたらしたから,幕府は天保改革において株仲間解散令を出した。嘉永・安政期には仲間の再興を許したが,株数を固定せず,希望者には加入を認めることになった。しかし商人仲間はたえず仲間人数を制限して,取引を有利にしようとし,弊害を生みやすかった。
京都,大坂のように商業の盛んなところでは,はやくから商人仲間の結成が行われた。それに対し江戸や関東では商業の発達が遅く,江戸の商人仲間は,享保改革のとき奢侈(しやし)品禁止,物価抑制の必要から幕府が命令して結成させたものである。また西日本の諸藩では株仲間をとおして領内の商品流通を規制していたから,幕府の株仲間解散令には同調しなかった。このように,地域により商人仲間の動向が異なっていたことに注意しなければならない。商品経済の深化につれて,農村では在郷商人,都市内でも仲間外商人が活躍して既成の取引経路を攪乱したが,これは新しい体制へ移行するための必要な条件であった。
江戸時代の大商人はそのまま近代の商人になったのではなかった。近世の大商人が停滞的になったのには,次の理由が考えられる。(1)近世の生産・管理技術の水準では,資本の規模が巨大化すると効率よく運用することが困難となった。(2)貿易や生産への投資に限界があったため,蓄積された大資本は幕府や大名への貸付けにまわされ,寄生化=高利貸化する必然性があった。これにより生産・流通面からの遊離化が進行し,市場経済への適応力が失われた。(3)幕藩権力との密着により一定の安定はえたが,彼らへの貸付けはたえず不良債権化する危険をはらんでおり,かつそれが現実となった。(4)諸地方の生産力の発達や,各地における市場の発達,情報の発達により,中央都市商業の独占度が低下し,しだいに商業利潤は減少した。そのため大商人は変化への適応力を失い,大多数のものは維新の転換期に没落した。
江戸期の商人は開港後も多くは従来の家業を継続したが,舶来商品取扱いの商人が新たに簇生(そうせい)した。大阪では1883年817人を数えた。多くの商人は市場の変化に対応して徐々に取扱商品をかえた。和紙問屋が洋紙問屋になったり,菜種油問屋が石油問屋になったりした。もっとも大きく変貌したのは,旧来の大商人が財閥になったケースである。呉服・両替業の三井家は貿易と鉱山を兼営するようになって,銀行,貿易,鉱山,呉服(1904分離独立)の財閥となった。住友家は銅の採掘・精錬に化学・金属工業を加えて重化学工業財閥となった。鴻池家は多角化に成功せず,小金融財閥にとどまった。
明治政府は,自由貿易,自由取引を外国に約束したこともあり,1868年(明治1)5月〈商法大意〉を発して,取引の自由を宣言したが,一方排他的でない商人の仲間,組合の結成は黙認した。商工業仲間の解放に伴って,不法な取引をする商人や粗悪品を製造する手工業者が出現した。そのため商業自由化によって,かえって取引が停滞するという弊害も生まれた。その対策として1870年代以降,商工業者をそれぞれ同業組合として組織化し,さらに地域ごとに諸同業組合を総轄する商法会議所,商業会議所(商工会議所)が東京,大阪,京都をはじめとする諸都市に設置されるようになった。こうして問屋,仲買,小売の諸商人は同業組合に加入し,商法(商業)会議所によってその利害を代弁されるようになった。しかし他方,明治以後あらたに貿易商人,貿易商社が登場し,呉服商は取扱商品を増やして百貨店化した。また個人企業として行われていた各種商業は大規模なものから,商法施行(1893)に伴ってしだいに合名会社,合資会社,株式会社など法人化されていって,かつてのように個人営業者として商人が活躍する分野は相対的に狭くなっていった。とりわけ,近代工業の発達により大工業会社が出現し,それらの経営者は日本工業俱楽部に結集して活動するようになったので,商工会議所は中小の商工業者のための組織のようになっていった。それにつれて,かつては実業家といえば大中の商人で代表されたが,しだいに大企業の経営者で代表されるようになった。そして大企業の経営者の団体が大都市に生まれ,それらを代表する全日本的な組織も作られるようになった。オーナー経営者を含む大企業の経営者の集団を財界という。すでに第2次大戦前でも,財界の意見はしばしば政治に影響を与えた。
→商業 →商業帳簿
執筆者:安岡 重明
早くから商業の発達していた中国では,商人の活躍も古くから知られている。《史記》貨殖列伝などによると,知恵と忍耐,節約と勇気,機敏と仁徳をそなえた経済活動を通じて巨富を築いた商人が多数いたことがわかる。漢代には国政に影響力をもつ大商人もあらわれた。三国時代以後には商業が衰えたので商人は自己を主張することができず,南北朝を通じてこの傾向は続いたが,隋唐から宋代にかけて勢力をもりかえし,明清時代には大商人が輩出した。
中国の商人は客商,坐賈(ざこ),牙行(がこう)の3種に大別される。客商は物資を生産地から消費地に販運する商人で,大商人が多く,数十の舟車をつらね,多数の従業員を使って全国的な規模で活動した。客商という用語は《韓非子》など先秦時代の書籍にもみえ,古くから活躍していたことがわかる。坐賈は鋪賈ともよばれ,都市や郷村に店舗を構えた商人をいう。牙行は取引を仲介し,商品の価格を評定する役割を演じた。牙行の名称も古く,漢代には駔(そう)または駔儈(そうかい)とよばれていたが,主要な業種ごとに専門化し,取引高に応じた手数料をうけとった。清代の牙行は,政府の免許がなければ営業できなかったが,その一種として,1757年(乾隆22)以後,外国貿易が広州1港に制限されたのを機に生まれた行商(こうしよう)がある。彼らは対外貿易の独占を認められた特許商人で,貿易の仲介にとどまらず,みずから貿易活動に従事したほか,来航する外国商人に国法を順守させ,納税を保証する義務を負った。行商は公行という組合をつくり,連帯責任のもとで業務を営んだ。
商人の一般的な経営形態は個人経営か,合股(ごうこ)あるいは合夥(ごうか)と称された共同経営か,そのどちらかであった。合股は2人以上の出資者(財東)が共同の損益計算で経営する形態で,その起源は必ずしも明らかではないが,文献的には宋代にはすでに存在していたことが知られ,明清時代には広く行われた。また,中国では古くから農業を基本産業と認めてきたが,商業も必要な業務として賤(いや)しむことはなかった。ところが商業の発達が農民を圧迫するようになると抑商論がしだいに台頭し,漢代に儒教が国家イデオロギーとして定着したのを機に,以後,歴代の王朝はすべて農を本とし,商を末として賤視するに至った。したがって商人の社会的地位は低かったが,社会にとって不可欠の業務を担う商人の活動まで否定できず,商人は実力をもって社会と経済に大きな影響力を行使しつづけてきた。その一例が専売商人である。
中国の商業,とくに大規模な商業は,政府の専売制度と密接な関係をもっている。専売制度の創始者は漢の武帝であるが,塩,鉄,酒,茶などの専売が実施され,商人は重要な役割を果たしたのである。塩を例にとって説明すると,当初,製造から販売まで一貫して政府が行う方法(官鬻(かんいく)法)が採用された時期には関与できなかったが,販売を商人にゆだねる方法(通商法)が施行されると,商人は積極的にこれに参加した。主として宋代以後であるが,明代,とくに後半期から清代にかけては販売の独占権を与えられ,巨大な利益を入手する塩商があらわれた。有名な揚州塩商であるが,彼らは国家財政の一翼を担う存在であると同時に,財力を背景として文化の保護者ともなった。〈北晋南徽〉といわれるように大商人は山西省と安徽省徽州府の出身者が多く,とくに明代以降がそうで,山西商人は塩,穀物,生糸を扱い,票号を経営して金融界に君臨した。安徽省の商人は新安商人とよばれ,塩商として名を馳せた。このほか,浙江省や広東省からも多くの商人を出したが,彼らは19世紀ころから台頭しはじめ,海外諸国との関係を通じて足場を固め,20世紀にはいると最大の勢力へと成長した。
→華僑 →塩 →専売 →茶
執筆者:寺田 隆信
近代以前の朝鮮における商業の担い手には,御用商人である市廛(してん)(六矣廛(ろくいてん))および貢人のほか,客主,旅閣や褓負商(ほふしよう),さらには京江商人など李朝後期に台頭する私商人層がある。李朝政府は,高麗の制度を受け継いで建国当初から首都ソウルに市廛を設置,特定商品の専売権を与える代償として種々の負担を課し,国家の必需品を調達させた。さらに17世紀以降,大同法の施行により貢物上納制度が廃止されると新たに貢人を指定し,農民から徴収した大同米を支給して必要物資の納入を請け負わせた。ソウルおよび地方での貢人の購買活動は商品経済に刺激を与え,市廛や貢人など特権的な御用商人とは区別される私商人層の台頭をもたらすことになる。地方における商品流通の中心は場市とよばれる定期市で,李朝後期に至って全国に普及した。場市には問屋である客主,旅閣が店をかまえ,地域の商業の中核として成長した。褓負商は場市を巡回する零細な行商人で,地方ごとに相互扶助的な団体を組織して営業を活発化させた。より大規模な物資の移動を担当する船商などの活動も盛んになり,遠隔の地方同士を結んで商圏を全国化する商人もあらわれた。その代表的なものに,ソウルへの米穀供給に従事した京江商人,各地に支店を置き人参取引をはじめ幅広く活躍した開城商人(〈開城〉の項参照)などがある。義州商人や東萊商人は,中国,日本との貿易で活躍した。有力な新興私商人層は,豊富な経済力を背景にして都賈(とこ)(買占め)商業を行い,特権に支えられた御用商人の都賈活動と対抗しながら,しだいに優位に立つ趨勢を示した。こうした在来の商業体制は,開港以後,外国商業資本の進出によって変容を余儀なくされる。各地で日本商人らとの商権をめぐる抗争がひきおこされたが,米穀貿易など新たな動向に対応して富を蓄える商人もあらわれ,近代的な会社組織への改編の試みもあった。しかし,多くの商人は1905年以降の朝鮮貨幣整理事業で打撃をうけ,植民地的な経済構造のもとに再編成されていった。
執筆者:吉野 誠
古代地中海世界は隣接するオリエント世界とともに,古くから商業活動が活発に行われた地域であった。5世紀に西ローマ帝国が崩壊したあとも,この伝統は,東ローマ(ビザンティン)帝国や後のイスラム世界に受け継がれた。一方,中世の西ヨーロッパは商業的辺境にすぎなかった。地中海地域からブドウ酒,香料,パピルスなどをもたらしたのがシリア商人やユダヤ商人であるのかどうか議論があるが,十分な史料はない。重要なのは,ライン~セーヌ川間の地域とイングランド,スカンジナビアとの関係が,8世紀以降少しずつ活発化することである。これが11世紀以降大発展し,南の地中海商業圏に対抗する北海・バルト海商業圏に成長する。商人層の出自についても多くの議論があるが,聖俗領主に流通担当者として奉仕しつつ,自己の計算に基づいて商業活動を行う人々の重要性が指摘されている。
西ヨーロッパがそれぞれ価値体系の異なるいくつもの自然的経済地域に分かれていた時代に,その枠を破ることができた商人は,大きな利益をあげることが可能だった。商人たちはこのような利益を追求しつつ交易網を発展させ,身分的自立を獲得した。11,12世紀における都市の発展,自治都市の成長によって,彼らは重要な基盤を得た。ハンザやコンパニーと呼ばれる商人団を組んで重要な市場を遍歴していた商人たちは都市を根拠地に,より恒常的な活動を行うことができた。このような発展は南のイタリアと北のフランドルを結ぶ交易の流れに沿って展開した。とくに香料などの貴重な東方物産の交易にたずさわるとともに,十分の一税としてローマに集まる豊富な教皇庁資金を扱っていたイタリア商人がこの交易路で優位に立った。彼らは簿記,手形,海上保険などの商業技術を開発し,商人兼金融業者として活躍し,13,14世紀に権力を集中しつつあったイギリス,フランスの国王や聖俗諸侯に結びつき特権商人となった。国王の側でも,国家の財政運営のために優れた管理能力と資金をもっている商人兼金融業者を必要とした。やがて絶対王政へと発展する国王権力と商人との結びつきは,近世のヨーロッパにおいて重要な意味をもった。15世紀フランスのジャック・クールはその典型的人物である。またフィレンツェのメディチ家,アウクスブルクのフッガー家はヨーロッパの政治に影響を及ぼすまでになった。このような大商人は金融活動に力を注いだが,商品を扱うにあたっては,遠隔地間の価格差を利用してもうけることができるかぎり,毛織物,ブドウ酒,穀物,塩,香料,手工芸品などあらゆる商品を売買した。その点では,彼らの活動も各地で発展していた小規模の地域的商業と結びついていたのである。
→遠隔地商人
16世紀における地理上の〈発見〉によって,ヨーロッパの貿易構造は大きく変化することになった。ポルトガルのインド貿易,スペインのアメリカ貿易はヨーロッパの商業圏を一気に拡大し,インドの香料やメキシコの銀が多量にヨーロッパに流入した。スペイン,ポルトガルの王室は厳重な国家管理によってこの貿易から最大の利益をあげようとしたが,それにくいこんで成功したのはむしろドイツ,オランダ,イタリアなどの外国商人であった。一方,北方ではアントワープが大きく発展していた。その商業取引所は1485年に開設され,16世紀にはヨーロッパ中の商人が集まるようになった。とくに国際商品として重要なイギリス毛織物が取引された。特権的な独占団体である冒険商人組合merchant adventurersの手で輸出された毛織物は,主としてバルト海をへて中欧,東欧へと運ばれた。この時代,北ヨーロッパの商業はロンドン,アントワープを中心に展開していた。宗教改革の過程でカルバンが勤労と禁欲を勧めると同時に利子付貸借を容認したことは,プロテスタント諸国における商人の活動を促進させる契機となった。
16世紀末から次の世紀にかけて,〈17世紀の危機〉と呼ばれる深刻な不況がヨーロッパを襲うようになると,国際間の競争はきわめて激化した。イギリスは従来の織物よりもはるかに軽量安価な〈新毛織物〉を作り出し,トルコを中心とする地中海市場に進出することによって,ベネチアなどのイタリア商人を追い落とした。イギリスの対外貿易における17世紀は,〈レバント会社〉の時代であった。バルト海においてはオランダがイギリスに対して優位に立ち,アントワープに代わってアムステルダムが北方の中心的市場となった。やがてオランダ商人も地中海へ進出し,フランスもこれに続いた。北ヨーロッパが南ヨーロッパに対する優位を確立し,さらに植民地の獲得へ向かったのがこの時代であった。イギリス,オランダ,フランスなどの対立は貿易差額主義に基づく重商主義の理論を生み出し,商人の利益と国家の利益を結びつける見解が生じた。その代表的論者がイギリスのトーマス・マン(1571-1641)である。彼は著書《外国貿易によるイングランドの財宝》(1664刊)において〈外国貿易は国王の偉大な歳入であり,わが王国の栄誉であり,貿易商人のりっぱな職業であり,わが国の貧民の仕事の供与者であり,わが国土の開発者であり,わが国の水夫の養成所である〉と述べている。フランスでもコルベール(1619-83)のもとで保護貿易政策が推進された。国富をになう者としての商人の評価が頂点に達したのがこの時代である。
18世紀中葉以降になると国民経済の生産的基盤が重視されるようになり,ヨーロッパ諸国は保護貿易主義と自由貿易主義の間をゆれ動いた。産業革命の進展と資本主義経済の確立とともに,先進国における商人の活動は産業資本に従属するものとなっていく。
執筆者:清水 廣一郎
西アジアの地理的位置がユーラシア,アフリカ,地中海,インド洋の接点にあることから,その地域社会の特徴は,限られた農耕地と不安定な乾燥農業に頼るよりも,都市を中心とする流通加工,中継貿易,運輸から成り立つ複合経済が歴史的に古くからみられたことである。とくに,より遠隔の世界との商業交易が地域社会と経済の発展の重要な基礎であり,経済活動の実際の担い手として活躍した商人層が国家,社会,文化のあらゆる分野で大きな役割を果たした。本来,アラビア語のタージルtājir(商人)はアラム語からの借用語で,とくに酒類を商う外国系商人を意味したが,預言者ムハンマドの時代前後にはシリア,イラク,イエメンの各方面に派遣されたキャラバン貿易に参加するクライシュ族の大商人は,広くタージルと呼ばれた。
アラブの征服が進み,ヘレニズム世界,イラン世界,インド洋,地中海などのそれまで政治,軍事,経済の諸発展を異にしていた交流圏が,イスラムという一つの共通の文化的ネットワークの中に組み込まれていく過程で,商人層の活躍する史上初の世界的規模の流通圏が実現した。またイスラム社会における巡礼行為が,国家,社会,部族,宗派などの枠を越えて多くの人々に広く自由な商業活動を行う機会を提供した。ムスリム商人たちの広範な活動は,キャラバンと海運による交通運輸網の発達と併せて,共通語としてのアラビア語の使用およびイスラム法による商保障の確立という文化的背景に大きく支えられていた。とくにイスラム法は,商業活動によって生じる協同責任,委託商品と利得の配分,利子や損害賠償などをめぐる紛争問題を解決するうえの規範となった。
14世紀の学者ディマシュキーはその商業論の中で,アッバース朝(750-1258)時代のムスリム商人をハッザーンkhazzān(蔵持商人),ラッカードrakkāḍ(遍歴商人),ムジャッヒズmujahhiz(問屋商人)の三つの型に分類して,広大なイスラム世界を舞台として活躍する商人の役割とその社会的地位の高さを説明している。ディマシュキーの商業論によって明らかなように,ムスリム商人の役割分担は,生産,加工,販売の諸過程で未分化であり,また多種多品目を商う総合卸売商的な特徴を強くもっていた。市を中心として活動した商人は小売商bā`a,sūqa,suwayqaと呼ばれた。また,取り扱う特殊商品によって,パン屋,油屋,薬屋,反物商,紙商などと呼ばれて,都市の中に定められた居住・販売地区に,同一職種の商人,手工業者が住んだ。彼らの秩序,商道徳,価格,量目を監視する役目は,市場監督官(ムフタシブ)であった。両替,金融,仲介斡旋,装身具・貴金属加工,酒,香辛料,薬物類などの職種ではユダヤ教徒,キリスト教徒などのジンミーが特殊技能と強固なネットワークをもって活躍した。国家にとって商人は,貨幣借款,通貨・物価政策,現物税の現金化,軍事物資の調達や国家投資による外国貿易の代行などの面で深い共存関係にあった。マムルーク朝(1250-1517)時代,国家支配層や官僚の支援を得た大商人は,奴隷,香辛料,金銀貨,穀物,砂糖,高級織物などの貿易取引を請け負うことによって,巨額の資本を蓄積し,その一部をモスク,マドラサ(学院),ハーン(キャラバン・サライ),ザーウィヤ(修道場)などの公共施設に寄進し,多くの学者,知識人を集めるなどの積極的文化活動を行った。したがって,商業ならびに商人たちの商行為は,イスラム国家と社会の安定を支え,文化の繁栄に寄与する重要な原動力として,人々の間に広く容認され,高い社会的評価を得ていた。
→商業
執筆者:家島 彦一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
商法上、商人には、固有の商人と擬制商人とがある。
(1)固有の商人は、自己の名をもって商行為をなすことを業とする者である(商法4条1項)。自己の名をもってするとは、私法上の権利義務の主体になることであって、行政官庁に対する届出の名義がだれであるとか、営業上の損益の帰属者がだれであるかなどは関係がない。また、業とするとは、営利の目的をもって同種の行為を反復継続することであるが、営業を営む意思は客観的に認められることを要し、教師、医師、弁護士、芸術家などの行為は、一般取引の通念上、営利の目的が主要なものとは認められないから、これらの者は商人ではない。ここでいう「商行為」は、商人概念の基礎となる基本的商行為を意味し、絶対的商行為(同法501条)と営業的商行為(同法502条)をさす。わが商法は、本来商行為概念から商人概念を導き出す商行為法主義をたてまえとしてきた。
(2)擬制商人とは、商行為を業としないが、店舗その他これに類似する設備によって物品の販売を業とする者、鉱業を営む者をいう(商法4条2項)。従来、商行為概念を基礎として商人概念を形成してきたわが商法の立場からは、農業、林業、漁業、鉱業のような原始産業を営む者を商人として取り扱わなかったが、1938年(昭和13)の商法改正で擬制商人を認め、企業的設備や企業形態に着目して商人概念を拡大した。従来、自分の果樹園で生産した果物を販売する行為は商行為でないために、そういう果物屋は商人ではなく、商法の適用を受けなかったが、擬制商人を認めることにより、店舗その他の企業的設備をもって販売すれば商法の適用を受けることになった。また、鉱業は通常、大規模な企業的設備をもって経営されるから、企業法としての商法の対象となることは当然である。なお、2005年(平成17)に制定された会社法は、会社がその事業としてする行為およびその事業のためにする行為は商行為とすると規定している(会社法5条)。会社は、その本店の所在地において設立登記することによって成立し(同法49条)、解散後、清算の結了を待って消滅する(同法929条)。自然人である商人の資格は、商法が定めている一定種類の営業(固有の商人の場合)、または一定形式における営業(擬制商人の場合)の開始によって取得し、その終了によって喪失するが、事実上開業の意思が客観的に認められるとき、すなわち開業準備行為の段階で商人資格を取得するものと解されている。
[戸田修三]
古代において、商人の活動する場は行商と市(いち)に求められた。ただし、彼らは専門の商人というのではなく、生産者がつくったものを自ら売りに出すという色彩が濃かった。専門の商人の出現が確認されるのは奈良時代前後である。平城京(へいじょうきょう)には官営の市が設けられ、市籍をもつ商人が売り買いを行った。下って平安時代には、都に東西市が設けられ、市籍をもたぬ商人も交えて売り買いが行われた。一方、このころには行商人のなかにも商い専門のものが現れ、とくに各地の特産物を売り歩くことがなされるようになった。平安末期になると、京都を中心に常設店舗をもつ商人が出現する。彼らは権門寺社と結び付くことにより、力をつけていった。
中世には、古代末期から力をつけてきた商人が、職種ごとに営業独占権を得るようになってゆく。問丸(といまる)とよばれるものがそれで、鎌倉末期ごろから台頭してくるのである。問丸は、京都・奈良のほか、全国主要都市で活動し、物資の中継・売買を独占した。独占のための組織として「座」を結成し、商い活動だけでなく、それにかかわる輸送手段まで規制するようになった。この傾向は地方の商人も同様で、村の市でも営業独占権を主張するようになってゆく。一方、借上(かしあげ)・土倉(どそう)などの金融業者、酒屋が力をつけてくるのも中世の特色である。彼らは幕府・大名と結び付き、財を供給するかわりに、さまざまな特権を得て、力をつけていった。
近世は、商人が専門・分化した時代である。すなわち、問屋・仲買・小売という、いまにつながる形態の発生をみるのである。彼らはそれぞれに仲間を結成した。「株仲間」とよばれるものである。株仲間は、加入できるものの人数を制限し、売買を独占した。これは、初期には物資供給の安定という効果があったが、やがて商品経済が進化してくると、円滑な売買を阻む要因となった。これを突き破ろうとして、仲間外商人が台頭してくるが、仲間商人との間に紛争が絶えなかった。これに呼応するように、農村では在郷商人が出現し、独占的な流通体制が崩れていったのである。なお、近世はいわゆる豪商が出現した時期でもあった。これらの商人は、蔵元、両替商、米商、呉服商、木綿問屋、油問屋、海運業などを営み、初めは専門職種に携わっていたが、規模が拡大するにつれ、兼業とするものが多くなった。鴻池(こうのいけ)、三井、住友、白木屋、大丸などが代表例である。
近代以降の展開は複雑であるが、開港後とくに目だつことは、輸入品取扱い商人が出現したこと、および近世の豪商が財閥となったことである。前者では、たとえば和紙問屋が洋紙問屋となったり、菜種油問屋が石油問屋になったりした例があげられる。後者では、三井・住友などが多角化をした代表例であるが、彼らはやがて財界を形成し、政治に対しても影響力をもつようになった。
[胡桃沢勘司]
品物を販売する際とられる形態としては、行商、市、常設店舗の3種がある。商人の理想としては店舗を構えることこそ第一である。しかし、そのためには一定地域内で安定した顧客を確保できることが条件であり、とくに前近代社会においてはそれを満たせる所は限られていた。行商や市によらざるをえない商人が大多数を占める時代が、長く続いたのである。とくに行商人は商人のパイオニアといわれる存在であり、一説にはその語源はこれに由来するともいわれている。「商人」はいまは「しょうにん」というが、かつては「あきんど」といわれていた。「あきんど」は「あきうど」が訛(なま)ったものだという。すなわち、収穫を終えた秋、農村にさまざまな物を売りにくる人であるから「あきうど」とよばれるようになったというのである。
行商人にはさまざまなタイプがみられ、1人で売り歩く小規模なものから、シルク・ロードを往来した隊商のような大規模なものまであった。庶民の生活に密着していたのは、むしろ小規模なものである。その形態も、ほとんど毎日くるものから、決まった季節にのみくるものまで、多様であった。これらは販売法も違っている。たとえば新潟県の岩船地方では、毎日くるイサバとよばれる魚売りは一軒ごとに売り歩くが、盆暮れにくるタベトとよばれる呉服屋は村の決まった家に数日間滞在し、村人がそこまで買いに行った。行商人はいまは少なくなったが、京都の大原女(おはらめ)、富山の薬売りなど、なお行われているものもある。市に出る商人も、回り歩くことは行商人と同じであった。市は、ある地域内で村ごとに日を違えて開かれるのが通例で、商人たちはその開催日にあわせて移動したのである。なお、行商と市の中間形態とされるものに「立ち売り」とよばれるものがある。市に出る商人は、通常仮店舗を構えて終日そこで販売するが、立ち売りは市には出るものの、文字どおり立ったまま販売し、機をみて移動していった。
常設店舗をもてる商人が増加したのは江戸時代からで、これが多数派になったのはつい近年のことなのである。商人は回り歩くもの、という時代が長く続いたわけだが、この特徴を生かし、彼らは単に品物を販売するだけでなく、外界のようすを知る機会の少ない当時の人々に情報をもたらす役割をも担っていた。経済的側面とともに、さまざまな文化が商人によって各地に伝えられたことには、見逃せないものがある。
[胡桃沢勘司]
『『行商と農村』(『定本柳田国男集16』所収・1962・筑摩書房)』▽『豊田武・児玉幸多編『流通史Ⅰ』(『体系日本史叢書13』1969・山川出版社)』▽『大隅健一郎著『法律学全集27 商法総則』新版(1978・有斐閣)』▽『『中世の商人と交通』(『豊田武著作集 第3巻』1983・吉川弘文館)』▽『北見俊夫著『市と行商の民俗 交通・交易伝承の研究2』(1985・岩崎美術社)』▽『樺山紘一他編『岩波講座 世界歴史15 商人と市場』(1999・岩波書店)』▽『吉田伸之編『商いの場と社会』(2000・吉川弘文館)』▽『佐々木銀弥著『日本商人の源流』(教育社歴史新書)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
字通「商」の項目を見る。
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…生産者の販売会社(自動車メーカーの販売子会社等)とか消費者の生活協同組合などは,それぞれから独立していないので,これに含まれない。広義には,たとえば商法の規定のように,〈自己の名をもって商行為をなすを業とする者(固有の商人)〉および〈擬制商人〉を商人とする定義がある。
【商法上の商人概念】
商法は営業の主体を商人とするが,具体的には次の二つの方法によって商人を定める。…
…
[日本における諸問題]
日本で国際商法の問題として扱われるのは,通常次のような事項に関する準拠法決定問題である。(1)総則的問題 (a)商人 ヨーロッパ大陸法系では商人という概念を認め,非商人と異なる特別の権利義務を定めていることが多い。しかし商人と非商人の区別の準拠法は一律に決定すべきでなく,商業登記,商業帳簿の作成義務などは営業所所在地法によるべきであるが,商事の法定利率によるか,民事の法定利率によるかに関しては,契約準拠法により決定されることとなる。…
…江戸時代の社会を構成した主要な身分である武士,百姓,職人,商人を指す言葉。四民ともいう。…
…したがって,商業を取引のために存在するところの企業と認識するこの説のほかに,交換説,再販売購入説,配給説などがある。交換説は,中世の都市経済における個別的な直接交換をとらえて商業とみる説であり,再販売購入説は,18世紀において商行為を専門の業務とする商人活動が盛んになるに至って,商人の再販売のための購入活動をもって商業とするものである。さらに,19世紀から20世紀にかけて,商人のみならず生産者,消費者,国もしくは地方公共団体によっても商行為が専門的に行われるに及んで,それらの組織体の商行為をも商業ととらえる配給説が唱えられた。…
…その決め方には二つの方法がある。第1は特定の行為を商行為として列挙する方法で,その商行為を行うものが商人とされる。商事法(商行為法)主義とよばれる方法である。…
…商法典は実質的意義における商法の発展の歴史の一つの発現形態である。
[商の発展]
消費者自身による天産物の採取や狩猟による自給自足の自然経済から,ときおり行われる余剰物の交換を経て,計画的な交換経済に入るや,生産者と消費者との間に立って財貨の流通を媒介する営利活動たる〈商〉が発達し,それを業とする〈商人〉が出現し,このような生活関係を規律する原始的な慣習的市場法である〈商法〉が生ずるに至った。10世紀に入りしだいに平和が回復するや食料等農村の生産物を都市に供給し,都市の完成品を近隣で売却するだけの商業から,より大きな利潤を求めて需要の大きな物資を生産地で安く仕入れそれを遠方の有利な消費地に運んで高く転売することを業とする商人が出現した。…
…日本近世における被支配諸身分の中で,百姓や諸職人とともに最も主要な身分の一つ。その基本的性格としては,(1)さまざまな商業を営む商人資本であること,(2)都市における家持(いえもち)の地縁的共同体である町(ちよう)の住民であり,正規の構成員であること,(3)国家や領主権力に対して,町人身分としての固有の役負担を負うこと,などがあげられる。以下(1)~(3)について説明する。…
…商家などで奉公人に別家を許すこと。17世紀以降,商人や職人の家屋の軒先に屋号,商品,商標などをデザイン化した暖簾を出すのが一般的になった。商人や職人が暖簾を重視するようになったのは,家業という特定の営業権や技術をもつ経営が成立していったことによる。…
…これは一職(いつしき)支配と呼ばれ,兵農分離の結果もたらされた近世的な社会体制を意味している。
[商人・職人の形成]
農業生産から遊離した名主百姓のなかには,武士化せずに商人・職人となる者もあった。彼らは町場に居住する場合には町人身分となり,おりから成立しつつあった新たな分業関係に基づいて遠隔地商業に従事し,軍需品や生活必需品の製作にあたった。…
※「商人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新