…戦後は,十数年にわたり,松竹の因会(ちなみかい)と三和会(みつわかい)とに分裂したが,1963年,両会は再び合同して,文楽協会が誕生した。そして,84年には,大阪に国立文楽劇場が開場した。
[義太夫節の種類と構成]
(1)時代物と世話物 義太夫節は時代物と世話物に大別される。…
…戦後にふたたび復興と再建の季節を迎えることとなった。再復興した劇場のほかに,54年には第1次俳優座劇場(客席401)が新劇専門の小劇場として,また文楽上演を考慮した道頓堀の朝日座(客席1000,1956),大阪の梅田コマ劇場(客席2044,1956),新宿コマ劇場(客席3000,1956),日生劇場(客席1340,1963),帝国劇場(客席1950,1966),国立劇場(客席,大劇場1746,小劇場630,1966),国立演芸場(客席300,1979),国立能楽堂(客席591,1983),国立文楽劇場(客席753,1984)などが新たに開場した。あわせて県民ホール,市・区民会館,公会堂などの多目的ホールが,全国的な規模でひろく設立されているところに,今日の特徴をみることができよう。…
… 一方,独自の舞台を必要とする能楽の保存振興のためにも施設の必要性が唱えられ,1974年から検討を進め,国立劇場と同じく公開・調査・養成の機能を全うする施設の設立を決定,83年9月に国立能楽堂(東京都渋谷区千駄ヶ谷,591席)が開場。また,文楽の保存振興のためには,文楽発祥の地である大阪に劇場を設けることが必要であるという観点から,1975年に建設を決定し,84年3月に国立文楽劇場(大阪市南区日本橋,753席)が開場した。 国立劇場の当初の計画に入っていながら,敷地の関係でなかなか実現を見なかった現代舞台芸術のための新国立劇場(第二国立劇場)は,東京都渋谷区本町に1997年10月に開場した。…
… このころより,人形浄瑠璃は三味線音楽の発達(朱と呼ばれる譜を発明)と相まって,芸の練磨・伝承に重点が置かれ,古典化の途をたどる。ただし人形浄瑠璃の観客数は必ずしも減少したわけではなく,大坂市中には群小座が分立し,その中から19世紀初頭に,高津橋南詰(現在の国立文楽劇場付近)に植村文楽軒が建てた小劇場が,後に難波神社境内に移り,文楽の芝居と呼ばれ,幕末・明治期人形浄瑠璃界の中心勢力となり,1909年(当時,御霊(ごりよう)文楽座)に経営が植村家から松竹合名会社に移って以後も,文楽座の名称は残り,大正・昭和ころから〈文楽〉は人形浄瑠璃の代名詞となった(祐田善雄《浄瑠璃史論考》参照)。文楽【内山 美樹子】
[明治期の人形浄瑠璃]
1872年(明治5),文楽軒の小屋は文楽座と名乗るが,当時,すでに文楽座は他座に抜きん出た大一座であった。…
※「国立文楽劇場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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