日本大百科全書(ニッポニカ) 「大坪本流」の意味・わかりやすい解説
大坪本流
おおつぼほんりゅう
江戸中期におこった和流馬術の新流派。流祖は斎藤主税定易(ちからさだやす)(1657―1744)。定易は大坪流8代斎藤求馬助辰光(くまのすけときみつ)について大坪流の奥義を窮めるとともに、そのころ来日した朝鮮人の演ずる曲馬術の乗馭法(じょうぎょほう)の長所を取り入れて、古伝に新鮮な解釈を加え、五馭(ごぎょ)(常・相・礼・軍・医)の法を唱え、その普及に努めた。
8代将軍吉宗(よしむね)は、綱吉(つなよし)の「生類憐(あわれ)みの令」によってすっかり萎靡(いび)沈滞した馬術界の再興のための諸政策を相次いで実施した。こうした気運にのって台頭したのが、定易の大坪本流で、門弟3000、免許を受けた者90余名という盛況を誇り、その子吉八郎定兼は黒田藩に仕え、600石を賜った(大坪本流馭馬(ぎょば)系伝)。定易はまた文筆に優れ、28歳のとき『武馬見笑集(ぶばけんしょうしゅう)』を著したのをはじめ、38歳のときに『馭馬必用(ひつよう)』を、さらに1726年(享保11)70歳のときの『馭馬大元記(だいげんき)』など、多数の伝書を残している。その子五六郎は黒田藩に仕えた。
[渡邉一郎]