大雲光明寺(読み)だいうんこうみょうじ(英語表記)Da-yun-guang-ming-si; Ta-yün-kuang-ming-ssu

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大雲光明寺」の意味・わかりやすい解説

大雲光明寺
だいうんこうみょうじ
Da-yun-guang-ming-si; Ta-yün-kuang-ming-ssu

中国,唐代中期のマニ教寺院。唐は安史の乱平定のためウイグル援軍を請うたのでウイグルの発言が強まり,その信仰するマニ教の会堂設置を認め,大暦3 (768) 年これに大雲光明寺の額を与えた。3年後に荊,揚,洪,越の諸州にも同名のマニ寺が建てられ,元和2 (807) 年には洛陽,太原にもマニ寺がおかれた。そこでは白衣白冠の教徒が潔斎して祭祀を行なった。会昌5 (845) 年の廃仏に際し,弾圧をこうむり廃された。

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世界大百科事典(旧版)内の大雲光明寺の言及

【マニ教】より

…唐の玄宗は732年(開元20)に邪教として漢人の信仰を禁じたが,在留の西域人については不問に付した。768年(大暦3)にはウイグルの要請で長安に大雲光明寺と呼ばれる摩尼教寺院が建てられ,9世紀の初めにかけて長江(揚子江)方面の大都会や洛陽,太原にも建てられたが,843年(会昌3)に会昌の廃仏に先立って禁断された(三武一宗の法難)。2年後の廃仏の際に景教と祆教も禁断され,宣教師たちは還俗させられるが,摩尼教の場合は,入唐僧の円仁が《入唐求法(につとうぐほう)巡礼行記》に,勅が下って天下の摩尼師を殺さしめたと明記したごとく,多数の殉教者を出した点が注目される。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」