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安史の乱 あんしのらんAn-Shi zhi luan; An-Shih chih luan

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

安史の乱
あんしのらん
An-Shi zhi luan; An-Shih chih luan

中国,唐中期に安禄山史思明によって指導された,天宝 14 (755) ~広徳1 (763) 年の反乱。均田制,徴兵制の行きづまり,官僚制の動揺を背景に,安禄山と楊国忠の権勢争いが直接の原因で起った。旧体制の破綻から新興官僚層が官界に進出して貴族の政権を脅かしはじめ,貴族系の宰相李林甫は権勢維持のため,辺境の節度使に異民族や平民を登用した。新興官僚で節度使赴任者が中央に帰り宰相となることが多かったからである。禄山はこうして登用された蕃将の一人で,李林甫,玄宗,その寵妃楊貴妃に取入り,幽州,平盧,河東3節度使を兼任した。徴兵制と羈縻 (きび) 政策の破綻で,節度使は大量の傭兵をかかえる強力な存在であった。林甫の死後,楊貴妃の一族楊国忠が宰相となると禄山と反目し,禄山は地位の不安を感じ,20万の兵で反乱を起した。禄山軍は長安を占領,玄宗は四川に逃れ,途中兵士の要求で楊貴妃と国忠を殺さねばならなかった。ウイグルの援兵があり,唐朝側もようやく立直り,一方,禄山は失明と疽を病んで狂暴となり,至徳2 (757) 年次子安慶緒に殺された。しかし反乱部将は慶緒に必ずしも従わず,乾元2 (759) 年,史思明が慶緒を殺して指導者となったが,思明もその子史朝義に殺された。禄山の旧将は朝義に従わず,唐朝に寝返り,朝義が殺されて乱は治まった。この乱で内地に藩鎮 (はんちん) が列置されて唐朝の律令的集権体制はくずれ去り,また均田租・庸・調制から両税法に移行せざるをえなくなった。

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デジタル大辞泉の解説

あんし‐の‐らん【安史の乱】

755年、の中期、玄宗皇帝の晩年に、節度使安禄山(あんろくざん)史思明らが起こした反乱。763年、粛宗の代に鎮圧。以後、唐の中央集権体制は弱体化した。

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百科事典マイペディアの解説

安史の乱【あんしのらん】

中国,唐の中期755年―763年,安禄山とそれを受け継いだ史思明らによる反乱。唐の玄宗は晩年楊貴妃を愛し,宮廷が腐敗し,均田制などの諸制度もくずれ,農民の流民化が著しくなってきていたが,この乱を機に門閥貴族が没落し,税制が改革され,節度使が中国内地に置かれ軍閥化するなど中国社会が大きく変化する契機となった。
→関連項目ウイグル顔真卿藤原清河

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世界大百科事典 第2版の解説

あんしのらん【安史の乱】

中国,代中期,安禄山,史思明(?‐761)らによって起こされた反乱。9年におよぶ大乱で,中国社会の様相が大きく変化する契機となった。唐が建国以来実行した周辺民族に対する羈縻(きび)政策は高宗朝(650‐683)ころから破綻に向かい,辺境では胡・漢の傭兵による常備軍が強化された。これを掌握する節度使は唐朝の中央集権支配から逸脱する傾向があり,安史の乱の根本原因もそこにあった。西域人(ソグド)と突厥(とつくつ)の混血である安禄山は平盧軍の部将から昇進して平盧(遼寧)・范陽(河北)・河東(山西)の3節度使を兼ねる大勢力となった。

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大辞林 第三版の解説

あんしのらん【安史の乱】

中国、唐の中期、安禄山あんろくざん・史思明が起こした反乱(755~763)。玄宗を退位させたが、ウイグルの援助を得た唐により鎮圧された。こののち、節度使による地方分権化が進んだ。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

安史の乱
あんしのらん

中国、盛唐時代に起こった安禄山(あんろくざん)、史思明(ししめい)らの反乱(755~763)。唐代の前期、後期を画する一大転機となった。
 唐帝国は玄宗治下に極盛期を迎え(開元の治(かいげんのち))、内外文化を混一、開花させたが、中年を過ぎた玄宗(げんそう)は政治に倦(う)んで楊貴妃(ようきひ)への愛におぼれ、宮廷では則天武后(そくてんぶこう)朝に抑圧された貴族勢力が盛り返し、皇族出身の宰相李林甫(りりんぽ)が専権を振るった。一方、大土地所有の発展、商業資本の活動などによる均田制、租庸調(そようちょう)体制の動揺と、農民層の分解が進み、逃戸(とうこ)や社会不安が増大し、府兵制の崩壊、傭兵(ようへい)制の拡大、財政膨張による増税のための括戸(かっこ)(逃戸や隠田(おんでん)の摘発調査)と、政治的、社会的矛盾が深まっていた。
 李林甫が独裁権を握ろうと辺境傭兵軍団の軍将に、蕃人(ばんじん)や下層身分出身者を登用したのに乗じて、東北辺の3節度使を兼任した安禄山は、巧みに宮廷に食い込んで大勢力となった。しかし、楊貴妃の族兄楊国忠(ようこくちゅう)が反李林甫派の中心となって林甫を追い落とし宰相となるや、禄山を敵視して謀反の企てありと中傷した。玄宗もついにこれを疑い、召還しようとしたので、禄山は反乱を決意、范陽(はんよう)(現在の北京(ペキン))で挙兵、755年11月、契丹(きったん)、鉄勒(てつろく)などの精騎8000余(名目上禄山の養子とし父子軍と称していた)を中核に、蕃漢15万(公称20万)の大軍で河北平原を南下、12月洛陽(らくよう)を占領、翌年大燕(だいえん)皇帝と称した。唐朝は20万を動員、西北より武将哥舒翰(かじょかん)を急派して潼関(どうかん)(洛陽、長安の中間)を守らせた。河北では平原太守顔真卿(がんしんけい)、常山太守顔杲卿(がんこうけい)兄弟らの地方官が禄山軍の後方を脅かし、河南では張巡(ちょうじゅん)、許遠(きょえん)らが(すいよう)城(商邱(しょうきゅう)県)を死守して禄山軍の江淮(こうわい)財源地帯への侵入を阻んだ。こうした地方官の抗戦の裏には、土豪を中心とする郷村自衛団があったといわれる。
 しかし、功をあせった楊国忠は哥舒翰に洛陽奪回を厳命、唐軍は禄山軍の間者におびき出されて大敗し、756年6月潼関を突破した禄山軍は一挙に長安に殺到、玄宗や宮廷貴族は蜀(しょく)(四川(しせん))へ落ち延びた。途中、馬嵬(ばかい)駅(陝西(せんせい)省興平県)で近衛(このえ)兵の憤懣(ふんまん)が爆発し、楊国忠は殺され、帝は迫られて楊貴妃を死に至らしめた。他方、玄宗と分かれた皇太子は西方の霊武(甘粛(かんしゅく)省)で即位(粛(しゅく)宗)し、反攻を準備した。戦線拡大を阻止された禄山軍は内紛を生じ、病に冒されて統制力を失った禄山は757年、子の慶緒(けいしょ)に殺され、翌年慶緒も部下の史思明に殺され、思明が帝位についたが、これまた761年、子の朝義に殺され、反乱軍の諸将は各地に割拠するありさまとなった。粛宗は太子広平王(後の代宗)を兵馬元帥、名将郭子儀(かくしぎ)を副元帥とし、朔方(さくほう)軍および救援を申し出た回(かいこつ)(ウイグル)の大軍によって、長安、洛陽を奪回、追撃に移り、763年史朝義を滅ぼし、9年に及ぶ大乱は終結した。
 しかし、乱中各地に配備、進駐した諸将はそのまま藩鎮(はんちん)となり、中央集権は崩れて軍事的分権化の傾向が強まり、とくに河北は長く半独立の体制をとり続けることとなった。戦火に荒廃した首都長安は、ついに打撃から立ち直れず衰微した。また軍費調達のため臨時の収奪が激増し、多くの新税が徴収されて租庸調制を変質させ、両税法への伏線が張られ、塩の専売をはじめ、財政運営面でも唐初以来の体制を一変した。以後、唐朝は、勢力を増大した蕃将の処置と、藩節度使の統制に精力の大半を費やすこととなる。[菊池英夫]
『藤善真澄著『安禄山』(1966・人物往来社) ▽藤善真澄著『安禄山と楊貴妃』(1972・清水書院)』

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世界大百科事典内の安史の乱の言及

【唐】より

…これが唐の高祖であり,ここに唐王朝が成立した。唐朝は,黄巣の乱後に黄巣の部下であった朱全忠に禅譲させられるまで,およそ290年の命脈を保ったが,8世紀半ばに起こった安史の乱ごろを境として,前半期と後半期とではあらゆる局面で性格を異にする。前半期は隋に引き続き律令体制の社会であった。…

※「安史の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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