マニ教(読み)まにきょう(英語表記)Manichaeism

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マニ教」の意味・わかりやすい解説

マニ教
まにきょう
Manichaeism

マニが3世紀にイランで創始した普遍的宗教で、東西に広く伝播(でんぱ)し、歴史的な勢力となった。経典宗教としての特色をもち『シャブラーカーン』『いのちの書』『プラグマティア』『秘儀の書』『マニ書簡』などを経典とする。

加藤 武]

教義

フランスの東洋学者ペリオが中国で発見したマニ教断簡(パリ国立博物館所蔵)によると、その教義は、二宗すなわち光と闇(やみ)、善と悪の二つの原理の対立に基づいており、三際とよばれる三つの時期に区分される。初際、つまり第一の時期にはまだ天地は存在していず、ただ明暗の区別があるのみである。明の性質は知恵で、暗の性質は愚かであった。そしてまだ対立矛盾はおこっていない。中際、つまり中期に入ると、すでに暗(闇)が明(光)を侵し始めていた。明がやってきて暗に入り込み混合した。大いなる苦しみのために、人は目に見える形体の世界から逃れようと願った。「火宅」(この世界)を逃れるためには真(光)と偽(闇)を見分け、救われるための縁をとらえなければならない。後際、つまり第三の時期には教育と回心を終える。真(光)と偽(闇)はそれぞれもときた根(ね)の国に帰る。光は大いなる光に帰り、他方、闇は闇のかたまりに帰る。以上の内容は、『テオドレ・バル・コーニー』とよばれる8世紀のシリア語の叙述ともよく一致する。

[加藤 武]

教団

マニは12人の教師、72人の司教、360人の長老からなる後継者を二つの群に分けた。一つはエレクトゥスelectus(選ばれた者)で、聖職者として五戒を守り厳しい修道を行った。いま一つはアウディトゥスauditus(聴問者)で、比較的緩やかな生活を許され、十戒を守った。ベーマbēmaの祭りを、教団はマニの殉教を記念する日としてもっとも重んじた。

[加藤 武]

伝播

マニ教は、キリスト教ゾロアスター教仏教道教などを混合するとともに、キリスト教や仏教を名のることによって巧みに勢力を伸ばし、4世紀には西方盛期を迎えたが、6世紀以後東方に向かい中国に達した。唐代の中国では摩尼(まに)教といわれ、則天武后(そくてんぶこう)は官寺大雲(だいうん)寺を建立している。

[加藤 武]

『岡野昌雄訳『アウグスティヌス著作集7 マニ教駁論集』(1979・教文館)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マニ教」の意味・わかりやすい解説

マニ教
マニきょう
Manichaeism

ゾロアスター教から派生し,キリスト教 (→グノーシス派 ) と仏教の要素を加えた古代ペルシアの宗教。教祖マニの名をとってマニ教と名づけられた。中央アジア一帯に急速に広まり,4世紀初頭にはローマ帝国へ,さらにはインド,中国にも伝わったが,のちイスラム教の迫害を受けて衰退し,13世紀にモンゴル帝国の侵入により消滅した。東西両世界を文化的宗教的に結びつけた功績は大きい。厳格な道徳律と簡明な教義および礼拝様式をもつ。教義は,光明すなわち善と暗黒すなわち悪との自然的二元論が根本をなしており,明暗の現実界を救う予言者としてマニが光明の神からつかわされたという。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報