日本大百科全書(ニッポニカ) 「天山流」の意味・わかりやすい解説
天山流
てんさんりゅう
近世中期に成立した砲術の一流派。流祖は信州高遠(たかとお)藩士、坂本孫八俊豈(としやす)(号天山、1745―1803)。正式には荻野(おぎの)流増補新術という。俊豈の父運四郎英臣(ひでおみ)は、荻野小左衛門正辰(こざえもんまさとき)が信州に遊歴した際、これに学んで奥旨を究めた。俊豈は父に従って少年時代から砲術を学び、1767年(明和4)23歳で家督を継ぐや、大坂玉造(たまつくり)の宗家に赴き、六兵衛照清について砲技を論究し、免許皆伝を受けた。その後も研究を続け、78年(安永7)いろいろ機巧(からくり)を考案し、砲身の旋回俯仰(せんかいふぎょう)が自在にできる発射台を作製することに成功、これを「周発台(しゅはつだい)」と命名した。子の孫四郎俊元(としもと)、孫の鉉之助(げんのすけ)俊貞(としさだ)、ともによく家業を継承し、令名が高かった。
[渡邉一郎]