日本大百科全書(ニッポニカ) 「からくり」の意味・わかりやすい解説
からくり
人形や道具を、ぜんまい、ばね、歯車、水銀、砂、水などを応用して自動的に操り動かす仕掛けをいう。絡繰、璣、機械、機関、機巧などの漢字をあてる。昔の自動的な機械、自動的な装置の総称である。動詞「からくる」(糸を縦横から引っ張って動かす、操るの意)が名詞化したもので、転じて、やりくり、たくらみ、計略、いんちき、詐欺などの意を示すことばとしても用いられる。ヨーロッパではオートマタautomata(automatonの複数形)という。
[斎藤良輔]
西洋におけるからくり
西洋でのオートマタの起源は紀元前のヘレニズム時代以前にまでさかのぼる。オートマタが現実の技術の裏づけをもって生まれるのは、古代ギリシアのヘロンからであろう。彼は、祭壇の上に火がともされると神殿の扉が自動的に開く装置、鋳貨を入れると自動的に水が出る「聖水箱」、芝居を演じられる自動的な劇場などさまざまな自動装置を発明した。ギリシアの学問や科学を取り入れて文化を発展させたイスラム世界は、技術面でも発達をみせ、各種時計やからくり人形、給水盤などを載せた書物を残している。
機械時計の発明についてはさだかではないが、現存する最古の機械時計は1364年につくられたものとされる。14世紀にはイタリアを中心にヨーロッパ各地の教会、市庁舎、公会堂などに塔時計が出現し、それらの時計には時間になると機械仕掛けの自動人形が踊ったり、鐘を打つなどの装置が施されるものが少なくなかった。15世紀後半、イタリア・ルネサンスの最盛期に登場したレオナルド・ダ・ビンチは技術史のうえに偉大な業績を残したが、彼の手稿には、たとえば、車の回転によって自動的に奏でる軍用太鼓、蒸気を利用した火吹き人形や自動的に肉を焼く串(くし)回し機など、多くの自動装置が描かれている。
その後、18世紀にはフランスの発明家ボーカンソンが劇場用の自動楽器や自動人形をつくり、大きな人気を博した。彼は織機も構想したが、それは後年ジャカールによって改良される。一方、蒸気機関を発明したワットは、1784年に蒸気で稼動する機械を自動制御する遠心調速機を発明した。
このようにして自動機械、自動装置は改良・発展を重ね、20世紀のコンピュータの発達を背景にして、ロボットや人工頭脳の世界にまで連なっている。
中国では漢の時代に機械木人の話が伝えられ、奇器の一つとして発達した。
[斎藤良輔]
日本におけるからくり
日本のからくりの起源は不明であり、中国から渡来したものと思われる。『日本書紀』斉明(さいめい)天皇4年(658)に「沙門智踰(ちゆ)造指南車」とあるが、僧智踰のつくった指南車には、南方をさす木造のからくり人形が装置されていたと思われる。12世紀前半成立の『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』巻24には、旱魃(かんばつ)の年高陽(かや)親王が水の圧力を応用したからくり人形を造って田に建てたところ人々が興じて人形の持つ器に水を汲み入れたため干損を免れたという説話がある。また大江匡房(まさふさ)の『傀儡子記(かいらいしき)』は、12世紀の初め頃からくり人形を舞わせる放浪芸能のあったことを伝える。西宮の夷舁(えびろかき)なども人形回しの名残りである。さらに室町時代には、盂蘭盆(うらぼん)の灯籠(とうろう)にもからくり仕掛けが現れた。
江戸時代になると、からくりは大きく発展する。1662年(寛文2)、竹田近江(おうみ)は、からくり人形を工夫・考案して、大坂道頓堀(どうとんぼり)でからくり人形芝居の初興行を行い、「竹田のからくり」として人気を博し、12年間も続けた。この竹田に続いてからくり興行で成功したのは、元禄(げんろく)(1688~1704)のころの操芝居(あやつりしばい)の山本飛騨掾(ひだのじょう)、伊藤出羽掾(でわのじょう)であり、宇治加賀掾の座も糸あやつり・大からくりを呼び物にした。やがて竹田出雲(いずも)が竹本座の経営にあたり、人形浄瑠璃(じょうるり)にからくりを大幅に取り入れ、これに近松門左衛門と竹本義太夫(ぎだゆう)が協力、『用明天皇職人鑑(かがみ)』『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』などの人形劇作品が生み出され、ひいては歌舞伎(かぶき)の演出にまで影響を及ぼすようになった。操芝居の人形も、機構がからくり仕掛けの影響を受けて巧妙となり、人形の眉(まゆ)・目・口・耳・舌・髪などが動くようになるなど表現方法が進歩した。
江戸中期からは「大からくり」とよぶ、からくり仕掛けの見せ物としても興行されるようになった。幕末には曲独楽(きょくごま)師によって演じられ、明治期には、泉鏡花の劇作品『滝の白糸』にみられるような水芸師などにその名残(なごり)をとどめた。そのほか興行では、水車仕掛けの「地獄極楽」、ぜんまい仕掛けの「佐倉宗五郎」などに語りのついたものがある。簡単なものとしては「のぞきからくり」がある。これは、数枚の絵を順次転換させて一編の物語にし、それを凸レンズを応用して拡大して見せる仕掛けになっており、享保(きょうほう)期(1716~1736)に生まれ、街頭で行われ人気を博した。
一方、祭礼の曳山(ひきやま)屋台へのからくりの応用は早くからある。1622年(元和8)には大津西行桜狸山のタヌキの糸からくりがあり、1662年(寛文2)には名古屋七軒町の橋弁慶車で、弁慶と牛若丸の戦う仕掛けがつくられている。以後、こうした技術の粋を凝らしたからくり屋台は尾張(おわり)地方を中心に盛行した。その精緻(せいち)のほどは、今日、岐阜県高山市の高山祭の山車(だし)などにみられる。
なお、山車人形を模したからくり人形玩具(がんぐ)も各地でつくられた。名古屋市東照宮祭礼の山車人形を玩具化した「牛若弁慶」、岐阜県大垣八幡宮(はちまんぐう)祭礼の「鯰(なまず)押え」などは郷土玩具として現存している。
江戸時代のからくりの技術の発展と流行は、からくりに関する著作も生み出した。1730年(享保15)には『璣訓蒙鑑草(からくりきんもうかがみぐさ)』(全2巻)が京都で刊行された。多賀谷環中仙撰(せん)、川枝豊信画のこの書はからくりの説明本であり、「錦竜水」「陸船車」「異竜竹」「唐人笛吹きからくり」「いろは人形のからくり」「太鼓のからくり」「道成寺(どうじょうじ)」「小かぢのからくり」「天鼓のからくり」「人形吹矢を吹くからくり」など、当時の代表的な約30種の仕掛けものが紹介されている。そして、たとえば「三段がへりかるはざ人形」について、腰部に入っている水銀が、人形を立てると上方に移動し始め、それにしたがって人形が反り返っていき、糸の操作で足があがり、ついには手をついてとんぼ返りをする、そうすると水銀はふたたび腰部に戻る、この動作を繰り返しながら人形は高低をつけた三つの階を、順にとんぼ返りして降りていく、というように、その仕掛けを説明している。しかし、その大半は自動装置や自動機械を科学的・力学的に適用しているとはいえず、図解というには不十分なものである。この書から60余年後、1796年(寛政8)に『機巧図彙(からくりずい)』(全3巻)が刊行された。著者は細川頼直(よりなお)である。この書には、西洋渡来の機械時計に基づき日本人が考案した和時計の機構、つくり方の科学的解説のほか、9種類に及ぶからくり人形玩具の構造が図解されている。その解説は『璣訓蒙鑑草』と違って、正面・平面図、また見取り図によってその全体、部分が詳しく描かれ、各部分品の材料やつくり方までていねいに解説している。これらは江戸時代の機械学的知識水準の高さを示しており、明治以降の科学的技術の急速な発展の一つの素地を示していると考えられる。
[斎藤良輔]
『立川昭二著『ものと人間の文化史3 からくり』(1969・法政大学出版局)』▽『『江戸科学古典叢書3・璣訓蒙鑑草/機巧図彙』(1979・恒和出版)』