三重県中部、多気郡(たきぐん)の町。伊勢(いせ)湾に面する伊勢平野の典型的な農漁業の町。1958年(昭和33)斎明(さいめい)村と三和(さんわ)町が合併して成立。近畿日本鉄道山田線と国道23号が通じる。沿岸では大淀(おいず)漁港を中心にノリ養殖、コウナゴ漁などが盛んで、ひじきの加工生産も多い。米作のほか、施設園芸が行われ、南部の丘陵はゴルフ場、住宅団地などに開発されている。また、大淀、明和などの工業団地が造成されている。国指定史跡の斎宮跡は古代、斎王(斎宮)の官衙(かんが)の置かれた所で、文武(もんむ)朝から南北朝まで約660年間存続し、700人を擁して地方では大宰府(だざいふ)に次ぐ規模の役所であった。現在は、いつきのみや歴史体験館や斎宮歴史博物館がつくられている。このほか、国指定史跡に水池土器製作遺跡、国指定天然記念物に斎宮のハナショウブ群落がある。面積41.04平方キロメートル、人口2万2445(2020)。
[伊藤達雄]
『『明和町史』(1972・明和町)』▽『『明和町史』全3巻(2004~2006・明和町)』
群馬県南東部、邑楽郡(おうらぐん)にある町。1955(昭和30)千代田、梅島、佐貫の3村が合併して明和村となり、1998年(平成10)町制施行。東武伊勢崎(いせさき)線、国道122号が通じ、館林(たてばやし)市の商圏に入る。利根(とね)川の北岸に沿い、谷田(やた)川との間に挟まれた低地で、水害に備えた水塚(みつか)と揚舟(あげぶね)が地方色を顕著に表している。水田面積が耕地の80%を占め米作が盛んだが、野菜やナシ、シクラメンなどの花卉(かき)栽培も行われている。とくに、矮性(わいせい)カーネーションは全国有数の生産地となっている。近年は工場進出や宅地造成が進み、都市化が著しい。川俣(かわまた)は利根川の旧河岸(かし)(河港)で、1900年(明治33)足尾鉱毒問題にまつわる川俣事件が起こった所でもあり、事件の記念碑が立っている。面積19.64平方キロメートル、人口1万0882(2020)。
[村木定雄]
『『明和村誌』(1985・明和村)』
三重県中東部,多気郡の町。人口2万2833(2010)。町域の大部分が伊勢平野に属する沖積低地で,西部を櫛田川の分流祓(はらい)川が,中央を笹笛川がおのおの北流して伊勢湾に注ぐ。神前山(かんざきやま)古墳群,天皇山古墳群など多数の古墳や遺跡がある。伊勢神宮に奉仕した斎王の宮が置かれたところで,斎宮跡(史)の東方には水池土器製作遺跡(史)があり,神宮や斎宮寮に調進する土器を製作していたと考えられる。現在も蓑村に神宮の土器調製所がある。志貴御厨(しきみくりや),藤原御薗など神宮の御厨や御薗も多数置かれていた。江戸時代は神宮領のほか津藩領,鳥羽藩領,紀州藩領などが錯綜した。斎宮や明星などには参宮街道に沿って旅籠(はたご)や茶屋が立ち並んだ。農業は米作や施設園芸のほかラッキョウの産地で,沿岸部ではノリの養殖や貝類の産もある。また養川(ようかわ)には松阪木綿(みいと織)の伝統を受け継ぐ正藍染め綿布製造の工場もある。斎宮のハナショウブ群落は国の天然記念物。かつての参宮街道に沿って近鉄山田線が通じ,また国道23号線が走る。
執筆者:上田 雅子
群馬県南東部,邑楽(おうら)郡の町。1998年町制。人口1万1209(2010)。利根川北岸の低地にあり,北は館林市,南は利根川を隔てて埼玉県羽生市に接する。川俣は近世に利根川水運の河港,日光街道の脇往還宿場町として栄えたが,東武伊勢崎線の開通後は衰微した。排水事業の進展とともに穀倉地となったが,東京都心から60km圏内にあるため近郊型農業に転換し,キュウリ,ハクサイ,トマトなどの生産が多い。シクラメンのハウス栽培,梨やブドウの果樹栽培も行われる。1972年の東北自動車道館林インターチェンジの開設以降,工場も進出している。
執筆者:千葉 立也
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