宇智大野
うちのおおの
「続日本紀」文武天皇二年二月条に「車駕幸宇智郡」、同書慶雲三年(七〇六)二月条に「車駕幸内野」、また天平神護元年(七六五)にも同様の記述があり、「万葉集」巻一には「天皇宇智の野に遊猟したまふ時、中皇命の間人連老をして献らしめたまふ」長歌の反歌に「たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野」とみえ、宇智(内)野にしばしば行幸・遊猟の行われたことが推定される。
吉野川支流、宇智川上流の近内村(現近内町)は「近つ宇智村」、下流の宇野村(現宇野町)は「大野村」の義かと思われ、郡北部が「近内」であるとすれば、その南部に古い宇智(遠つ宇智)があったと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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