崎門三傑(読み)きもんさんけつ

旺文社日本史事典 三訂版 「崎門三傑」の解説

崎門三傑
きもんさんけつ

江戸中期,崎門学派佐藤直方浅見絅斎 (けいさい) ・三宅尚斎 (しようさい) の3人をさす。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の崎門三傑の言及

【浅見絅斎】より

…初め高島氏を称し,後浅見氏に改める。初め医を業とし,後京都に出て山崎闇斎の門人となり,儒者として身を立て,闇斎の朱子学を継承し,佐藤直方,三宅尚斎とともに崎門(きもん)三傑と称せられ,その筆頭に推重された。しかし師闇斎の神道尊信に反対し,一時師門を破門された。…

【闇斎学】より

… こうして闇斎自身においては中国の道儒教と日本の道神道とが矛盾することなく調和していたのであるが,門流は当然純儒派,神道派,神儒並行派に分かれた。純儒派の門人としては浅見絅斎(けいさい),佐藤直方三宅尚斎が崎門三傑として近世中期以後の学問に大きな影響をあたえ,闇斎の朱子学はこの純儒派の人々によって継承された。江戸中期以後全国各地で藩儒として任用されたその勢力は江戸幕府の林家朱子学と対抗する形勢を示した。…

【佐藤直方】より

…江戸中期の儒者。名は直方,通称五郎左衛門。備後の人。若くして京都に出て山崎闇斎に師事。浅見絅斎,三宅尚斎とともに崎門(きもん)の三傑と称される。のち江戸に移り,諸大名の間に遊び,福山・前橋・彦根藩などの藩儒を歴任した。純粋な朱子学者で,師の闇斎が垂加神道を唱えると,これに従わず師門を去った。朱子学的秩序論,名分論から放伐を肯定し,赤穂浪士の復讐を義挙にあらずと論難するなど朱子学理論を徹底させ,近世思想史上独特の存在であった。…

【三宅尚斎】より

…播磨国明石の人。山崎闇斎の門人で,佐藤直方,浅見絅斎(けいさい)とともに崎門三傑といわれた。武州忍(おし)藩主阿部家に仕官したが,直諫して藩主の怒にふれ幽囚された。…

【山崎闇斎】より

…彼の提唱した朱子学を闇斎学とよび,彼の主唱した神道説を垂加神道と称する。闇斎学を継承した人に浅見絅斎(けいさい),佐藤直方三宅尚斎の,いわゆる崎門三傑があり,神道説は正親町公通(おおぎまちきんみち),春原信直(道翁),梨木祐之らによって継承され,玉木正英によって秘伝が組織化された。《山崎闇斎全集》(正編2冊続編3冊,1937年刊)がある。…

※「崎門三傑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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