日本大百科全書(ニッポニカ) 「崎門学派」の意味・わかりやすい解説
崎門学派
きもんがくは
近世前期の儒学者山崎闇斎(やまざきあんさい)の学派。闇斎の儒学の高弟は佐藤直方(なおかた)、浅見絅斎(けいさい)、三宅尚斎(みやけしょうさい)の3人で、世にこれを崎門の三傑と称している。佐藤直方は江戸に居住して福山侯、厩橋(うまやばし)(前橋)侯など諸大名の学師となり、「雄弁懸河(けんが)」をもって武家社会に教勢を拡大した。浅見絅斎は大名に出仕せず、京都に望楠楼(ぼうなんろう)を設けて大義名分の学風をおこし、若林強斎(きょうさい)、山本復斎(ふくさい)ら多数の門人を養成、近世後期の勤王思想の勃興(ぼっこう)に大きな感化を与えた。三宅尚斎は三傑中最年少で忍(おし)藩の阿部氏に仕え、のち京都に講学、詳細な経書注解をもって聞こえた。1682年(天和2)山崎闇斎の没後、直方は講談、絅斎は大義、尚斎は注解をもってそれぞれ闇斎の学風を紹述し、崎門学派を名実ともに近世の主流的儒学派として形成させるのに大功があった。崎門三傑の名のあるゆえんである。ほかに神儒兼学派の遊佐木斎(ゆさぼくさい)(仙台藩儒)、植田玄節(げんせつ)(広島藩儒)、谷秦山(しんざん)(土佐藩儒)らが門下にあり、その学派的勢力と思想的影響は、近世を通じて全国的に伸張、明治維新の思想的原動力となった。
[平 重道]