江戸中期の儒学者。名は安正、通称重次郎。絅斎は号。近江(おうみ)国高島郡(滋賀県高島市)の人。山崎闇斎(やまざきあんさい)の門人で、闇斎の純正朱子学の学風を継承し、佐藤直方(さとうなおかた)、三宅尚斎(みやけしょうさい)とともに「崎門(きもん)の三傑」と称せられた。闇斎が神道を重んじるに及び師門を離れたが、のち師の神道説にも理解と尊信をもつに至った。ひととなりは厳毅、つねに長刀を帯し、脛巾(はばき)に「赤心報国」の4字を篆鐫(てんせん)(篆字を彫り刻むこと)したという。著述はすこぶる多く、『辨(べん)大学非孔氏之遺書辨』『忠孝類説』『靖献遺言(せいけんいげん)』8巻は、近世勤王論の発達に大きな影響を与えた著作として知られる。また楠木正成(くすのきまさしげ)を敬い、望楠軒(ぼうなんけん)とも号した。
後年神道を尊び、生涯任官せず門人の教育に尽力した。門人に三宅観瀾(みやけかんらん)、若林強斎(わかばやしきょうさい)らがある。正徳(しょうとく)元年12月1日に没した。60歳。
[平 重道 2016年4月18日]
『舞田正養著『絅斎先生全集編纂の由来』(『増補 山崎闇斎と其門流』1943・明治書房・所収)』▽『平重道著『近世日本思想史研究』(1969・吉川弘文館)』▽『近藤啓吾著『浅見絅斎の研究』(1970/増訂版・1990・神道史学会)』▽『近藤啓吾・金本正孝編『浅見絅斎集』(1989・国書刊行会)』
(柴田篤)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
江戸初期の朱子学者。名は安正,幼名順良,通称重次郎,絅斎は号。近江国の人。初め高島氏を称し,後浅見氏に改める。初め医を業とし,後京都に出て山崎闇斎の門人となり,儒者として身を立て,闇斎の朱子学を継承し,佐藤直方,三宅尚斎とともに崎門(きもん)三傑と称せられ,その筆頭に推重された。しかし師闇斎の神道尊信に反対し,一時師門を破門された。著書はすこぶる多く,《靖献遺言》8巻は忠志を貫徹した中国の志士8人の伝記を叙しその事業を顕彰したもので,近世勤王論の発展に大いなる感化を与えた。彼は人となり厳毅,常に長刀を帯し,鐔(つば)に赤心報国の4字を篆刻(てんこく)していたが,これは彼が単なる学者ではなく,実践を旨とした思想家であったことを示している。平生楠木正成の忠誠を仰薫し望楠軒と号した。終生任官せず京に講学したが,門下から三宅観瀾,若林強斎,山本俊斎などの優れた学者を出した。
執筆者:平 重道
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1652.8.13~1711.12.1
江戸前期の儒学者。名は安正,通称は重次郎,絅斎は号。崎門(きもん)三傑の1人。近江国生れ。はじめ医師だったが,28歳のとき山崎闇斎の門に入り朱子学を学ぶ。塾を開いて弟子をとり,生涯仕官せず,江戸の地も踏まなかった。師説を忠実に継承したが,闇斎の神道説はとらず,また闇斎の敬義内外の説を批判して破門された。中国の忠臣義士を顕彰した編著「靖献遺言(せいけんいげん)」は,幕末の尊王攘夷派の志士たちに大きな影響を与えた。ほかに筆録「箚録(さつろく)」。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
※「浅見絅斎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
[1973~ ]プロ野球選手。愛知の生まれ。本名、鈴木一朗。平成3年(1991)オリックスに入団。平成6年(1994)、当時のプロ野球新記録となる1シーズン210安打を放ち首位打者となる。平成13年(...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新